第68話:「もち、ちょっとだけ“ごほうび旅”へ」
吾輩の名はもち。職業は猫。
特技は癒しと変顔。
そして最近の悩みは、ご主人の「眉間のしわ」が増えたことである。
ご主人――みのりは、会社を辞めた。
いろんなことがあって、いっぱい悩んで、いっぱい泣いて、ようやく決断したのだ。
だが、辞めたからといって、すぐに「楽になる」わけではないらしい。
朝、ぎりぎりまで布団から出られない。
昼間、ぼんやりスマホを見つめて動かない。
夜、溜め息をついて、吾輩をそっと撫でる。
撫で方が、いつもより少し――弱いのだ。
「……もち。ちょっと、出かけようか」
ある日、ご主人がそう呟いた。
突然のことで、吾輩はびくっとした。
出かける? また病院か!? ワクチンか!? それとも撮影現場か!? と身構えたが、ご主人の笑みはやわらかく、どこか「決意」のようなものに満ちていた。
「たまにはね。ごほうび旅、しよ。もちと私だけの」
行き先は、電車で1時間ちょっとの温泉地。
ペットと泊まれる宿を、こっそり予約していたらしい。
以前のように“動画撮影のため”ではない。あくまで、ご褒美としての、ふたりきりの小旅行。
吾輩は、あのキャリーケースに入れられ――少し不満げな声を漏らしつつも、ご主人の膝に置かれた手の温もりに、心なしか安心していた。
「もち、ありがとうね。……ずっと、そばにいてくれて」
電車の振動は、いつもと同じだった。でも、今日は違う何かを感じた。
それはきっと、ご主人の表情がほんの少し明るくなっているからだろう。
車窓から見える景色が、都会のざわつきを離れ、どんどん緑に染まっていく。
山の陰から見えた川のきらめきに、吾輩は思わず鼻をひくつかせた。
そして、到着した宿は――まさに猫天国だった。
「もちー、見て見て! この猫専用ベッド! ほら、おやつセットもついてる!」
部屋に入るなり、ご主人はテンションMAXである。
吾輩はといえば、部屋をくまなくチェックして、落ち着いた空間で“ぐでん”と横になる。
ふわふわの座布団。窓際の低い陽だまり。
ここは、まさしく「吾輩の王国」……!
「……やっぱり来てよかった」
湯上がりのご主人が、小さくそう呟いたとき、吾輩は彼女の隣で静かに丸くなっていた。
その声は、さっきまでの不安を溶かすように、静かで優しいものだった。
「会社を辞めてから……なんだか、がらんとした気持ちが続いてたんだ。でも、もちがいてくれるから……こうして、ちゃんと笑える時間がある」
吾輩は「にゃ」と一声応える。
それは、そうだろう? と胸を張る声だった。
吾輩の存在が、ご主人の支えになっているのなら、それだけで十分。
その晩、ご主人はいつもよりぐっすり眠っていた。
寝息が規則的で、表情も穏やかだった。
吾輩は彼女の枕元で、じっと見守っていた。
これまで、たくさん頑張ってきたご主人。涙も笑顔も見てきた吾輩にとって、この“ご褒美旅”は、何より嬉しいひとときだった。
たった一晩の小さな旅。だけど、それはとても深く――心に残る時間だった。
翌朝。
「もちー、そろそろ帰るよー。……また、日常に戻るけど、大丈夫。ちょっとずつ、私なりのペースでやっていくから」
吾輩は、キャリーに自ら入った。
まるで、「準備はできておるぞ」と言わんばかりに。
帰りの電車、ご主人は笑っていた。
あの少しぎこちない笑顔ではなく、心からの、ほっとした笑顔だった。
そして、スマホを手にしたご主人は、久しぶりに動画アプリを開いた。
「……ねぇ、もち。撮っていい?」
吾輩は、大きく伸びをして、にゃんと鳴いた。
さあ、帰ろう。
我らが日常へ。
でも、少しだけ――強くなった心を胸に。




