第64話:「みのり、ついに母に相談する」
――午前10時。日曜の朝。
私は、冷たい麦茶の入ったグラスを握りながら、ずっとスマホの画面とにらめっこしていた。
ホームボタンのすぐ上に並ぶ未送信のメッセージ。どれもこれも、母に送るには勇気が足りず、下書き止まり。
《話したいことがあります》《少し電話できますか?》《相談したいことが……》
指が動かない。
送れない。
胸が、ぎゅうっと苦しくなる。
「みゃぁ」
膝の上に乗ってきたもちが、私の顔を見上げた。まるで「はよ送れ」とでも言いたげな、真っ直ぐな目。
「……もち」
撫でると、もちの喉がぐるぐると鳴った。
その音に背中を押されて、私はようやく決心した。
画面右下の“送信”を押す。すぐに“既読”の表示がつき、返事が来た。
《電話で話すより、お昼ごはんでも食べに来なさい》
短い一文。
でも、それは母らしい、優しい誘いだった。
実家は、電車で二駅の距離にある。
車内では、頭の中で何度もシミュレーションを繰り返した。
会社にバレたこと。
職場でのざわつき。
上司に呼び出されたときの空気。
「副業禁止の社則、知ってますよね?」と冷たく言われたときの、心が凍る感覚。
でも私は、動画をやめたくない。
もちと一緒に作ってきたこの日々を、ただの“副業”なんて呼ばせたくない。
だけど――もし母に反対されたら?
「会社を辞めるなんて馬鹿なこと言わないで」
「そんな不安定なことで、どうするの」
……怖い。母の言葉は、いつも正しいから。
玄関のチャイムを押すと、母がすぐに出てきた。
エプロン姿で、相変わらずきれいに髪をまとめている。
「来たわね。まあまあ、上がって」
「うん……おじゃまします」
ダイニングのテーブルには、母の手料理が並んでいた。
煮込みハンバーグ、ポテトサラダ、わかめと豆腐の味噌汁。懐かしくて、優しい味。
「いただきます」
「食べなさい。いっぱい」
しばらくは、食卓に穏やかな時間が流れた。
食べながら、今日の天気の話や、父の畑のきゅうりが豊作だった話――本題に触れぬまま、時間だけが過ぎていく。
「……で、話って何?」
母がふと、箸を置いて、まっすぐに私を見た。
その瞬間、私は口を開いた。
「実は……会社に、動画のことがバレちゃったの」
「……バレた?」
「もちとの動画投稿。副業にあたるって……。だから、上司に呼び出されて」
母は、何も言わなかった。ただ、静かに、私の言葉を待っている。
「副業禁止なのに続けていたってことで……処分対象になるかもって。辞めさせられるか、自分で辞めるか……そういう流れになりそう」
「……ふうん」
静かな反応だった。
私は怖くなって、言い訳みたいに続けてしまった。
「でも、もちとの動画、少しずつ見てくれる人も増えてて。収益も出てきて、やりがいがあって……。何より、もちと過ごす時間が、私には……」
言葉が詰まった。
「本当に、幸せだったの」
沈黙が落ちた。
キッチンの時計の針が、コチ、コチ、と音を立てている。
そして、母は静かに言った。
「――やめなさい」
ズキンと、心臓が痛んだ。
「……そんな、軽い気持ちで始めたことで、会社を辞めるなんて、バカよ。将来どうするの。安定した仕事を、手放す理由にならない」
「でも……私は、動画が好きで……」
「好きなだけじゃ、生きていけないの。あなたがどれだけ頑張っても、動画は水物よ。今は見られてても、来年どうなってるか、分からない」
冷静で、でもはっきりとした言葉だった。
私は言い返せなかった。
「……分かったわ。私、もうちょっと考えてみる」
それが精一杯だった。
「もちくんは、元気?」
話題が変わった。
「うん、相変わらず、おしゃべりだよ。今日も、朝から私の顔の上に乗ってきて」
「ふふ、甘えん坊ね」
母の口元が少し緩んだ。
ほんの少しだけ、空気が和らいだ。
帰り道。
電車の中で、私は窓の外を見つめていた。
母の言葉は、正論だった。きっと、世の中の多くの人が、同じことを言うだろう。
だけど、それでも。
私は――このまま終わらせたくない。
ポケットの中でスマホが震えた。姉からだった。
《どうだった?》
私は、ひとことだけ返した。
《正論すぎて、涙止まらん》
そして続けた。
《でも……》
母にはあえて答えは言わなかった。
画面の中に浮かぶもちの待ち受け写真。
まっすぐにカメラを見つめる瞳が、私の背中をそっと押してくれている気がした。




