第65話:「みのり、会社に決断を伝える」
私は朝からずっと、胸の奥がじくじくと熱を持ったように落ち着かなくて、心なしかスーツの襟元もきゅうっときつく感じていた。
手には、昨夜何度も書き直して清書した退職届が入った封筒。文字に間違いはない。でも、本当にこれを渡してしまっていいのか、私は何度も自問していた。
だけど——もう、逃げない。
私はデスクに着くと、何かを決意するように深呼吸をした。
コーヒーの匂いが漂うオフィス。キーボードを叩く音。電話が鳴って、誰かが笑って、誰かがため息をつく。この「いつもの空気」に、私はもう、違和感を覚えるようになっていた。
もちを拾ってから変わった。
世界の見え方も、自分の心の奥も。
動画投稿をはじめて、誰かに喜んでもらえる嬉しさを知った。
再生数やコメントよりも、「ありがとう」「癒された」「笑えた」の一言が、なにより心に響いた。
だけど同時に、会社にいる私はどんどん空っぽになっていった。
仕事に責任を持つのは当然。
でもそれだけで生きていくには、もう……私は無理だった。
「課長さん……」
声が少しだけ震えた。でも、ちゃんと伝えた。
会議室で向かい合った課長は、私の手から退職届を受け取ると、一瞬言葉を失っていた。
「……高橋、これ……どういうことだ?」
どうやらこの前回話したことは部長は言っていなかったようだ。
「実は、課長にはずっと言えなかったんですが……私、趣味で動画投稿をしていて……。拾った猫と一緒に始めたんです」
「……猫?」
「はい“もち”っていうんですけど……今、少しずつ注目されていて……。それで、このまま両立を続けるのが難しくなってきて」
私は包み隠さず話した。
動画が伸びていること、取材やコラボ、案件の話まで来ていること、そして――会社に迷惑をかけたくないという思い。
課長は、黙って私の話を全部聞いてくれた。
そして、ふっと目尻を緩めてこう言った。
「……お前、もしかして“もふもふ劇場”の?」
私は一瞬、固まってしまった。
「うちの娘が大ファンなんだよ“ちゅ~る大戦争”とか何度も見せられてな……。おいおい、あれ、みのりだったのかよ!」
そう言って、課長は豪快に笑った。
「びっくりしました……」
「でも正直、驚いたけどな。……会社に迷惑かけたくない、って気持ちもわかる。だけど、高橋」
彼は少しだけ真面目な表情になって、私をまっすぐに見つめた。
「自分の人生だ。誰かに合わせるために生きるなよ。やりたいことがあるなら、挑戦してみろ」
涙が、こみあげてきた。
「課長……ありがとうございます……」
そのあと、人事に届けを出し、退職に向けた手続きの説明を受けた。
まだ実感はない。でも、確実に新しい一歩を踏み出したんだと感じた。
家に帰ると、いつものように玄関にちょこんと座っているもちが私を出迎えてくれた。
「ただいま、もち」
「……にゃっ」
私はすぐにしゃがんで、もちを胸に抱きしめた。
「言ってきたよ。お仕事、やめるって」
喉の奥がぐっと熱くなる。
抱きしめたもちの体は、ふわふわで、あたたかくて、私の涙を黙って受け止めてくれた。
「不安もいっぱいある。でも、もう嘘ついて生きるの、やめたいんだ。もちと一緒に、ちゃんと向き合ってみたい」
もちは何も言わない。
ただ、静かに「にゃあ」と鳴いて、私の頬に頭をすり寄せてきた。
この子と出会って、変わった。
世界が、優しくなった。自分のこと、ちょっとだけ好きになれた。
夜、編集画面を開いた。
会社に気を遣って、ずっと控えていた新しい動画のアップ。
久しぶりに見るタイムラインは、少しだけまぶしかった。
でも今は、胸を張って向き合える。
これが私の「仕事」になる。笑われたっていい。失敗したって、もちがいる。応援してくれる人がいる。
「ねぇ、もち。私、ちゃんと頑張るから」
もちがぽてっと膝に乗って、ぺたっと私の手に頭をくっつける。
ああ、もう大丈夫。
次回:第66話「もち、ご主人の決意を守る(番猫モード発動)」に続く!




