第三章 第21話:もち、はじめてのベランダ探検
吾輩は猫である。名前は「もち」である。
晴れて“家族”という称号を手に入れてからというもの、吾輩の暮らしはますます安定してきた。
カリカリは定刻に出てくるし、ちゅ~るは芸をせずとも献上される。布団は暖かく、日差しはぬくぬく、ご主人様の足の指も格好の遊び道具である。
だが、まだ足を踏み入れていない未開の地があった。
「ベランダ」である。
そこは、透明なガラスの向こうに広がる未知の世界。
カーテンの隙間から吹き込む風、鳥のさえずり、まぶしい光――まさに“外界”そのものである。
吾輩はかつて、その領域に鼻先を近づけたことがあった。
だが、網戸という結界に阻まれ、それ以上先には進めなかった。つまり、ここは人間だけが踏み入ることのできる“禁断の庭”だったのだ。
――と、そこへ事件は起きた。
「もち~、今日ベランダ行ってみる?」
ご主人様の軽いひとこと。
それは天変地異の始まりであった。
吾輩は耳をピクリと動かしながら、ふて寝で抗議する。だが、ご主人様はまったく動じない。扉を開け、風通しをよくし、念入りに雑巾で床を拭き始めた。
「もちが歩くとこだからね、ちゃんとキレイにしないと♪」
なんたる用意周到!これは完全に本気である。
やがて扉が完全に開かれた。冷たい風が頬を撫で、草とコンクリートと人間の生活臭が混ざった匂いが吾輩の鼻孔を直撃した。
「にゃ……(これは……冒険の匂い!)」
気づけば、吾輩の足は一歩、また一歩とベランダへ。
肉球に伝わる冷たいコンクリートの感触。目を細め、風に毛を撫でられる感覚は悪くない。
むしろ、ちょっと気持ちいいかもしれぬ。
「おお~!もち出た!えらいえらい!」
後ろでご主人様が拍手している。その音に驚き、一瞬ぴょんと跳ねる吾輩。落ち着かねば。
周囲を観察してみると、洗濯物が風でぱたぱたと揺れていた。と、その瞬間――
「にゃ゛あっ!?」
白いYシャツが突如として吾輩の顔面にヒット。不意打ちである!
慌ててジャンプ!着地!と思いきや、洗濯バサミを破壊してシャツを引きずり落としてしまった。
「もおおおおちぃいいい~~~!Yシャツがあああ!!」
ご主人様の悲鳴が飛ぶ。しかし、吾輩に過失はない。これは、風と布の連携プレイによる事故である。断じて吾輩の責任ではない。
と、その時――
ぷぃぃぃ~~ん。
黒くて小さな、あの生き物が飛んできた。
虫である。
「にゃにゃっ!?(ほう……敵であるな!?)」
背中を丸め、尻尾をぷるぷるさせ、眼光鋭くターゲットをロックオン。いざ、猫のプライドをかけた狩りの時間である!
「も、もち!?それやめ……あー!!」
ご主人様の声も聞こえぬまま、吾輩はベランダを駆け抜け、ジャンプ!見事な空中ターン!しかし、虫は逃げ、代わりにご主人様の干していた靴下が犠牲となった。
「……もうダメだ、洗濯物全滅だ……」
ご主人様がしゃがみこんで項垂れる。ああ……さすがに今回はちょっとやりすぎたかもしれぬ。
そろ~っと近づき、ぺたりと足元に座る吾輩。
「にゃ……(ごめんである……)」
「……ぷっ、もちぃ、びっくりしたね……でも、頑張ったね」
ご主人様は笑ってくれた。
怒っていないようだ。頭を撫でてくれる手は、やっぱりやさしくて、あったかい。
部屋に戻り、いつもの窓辺に戻った吾輩。風のにおい、鳥の声、コンクリートの感触――確かに外には刺激があった。だが、吾輩の帰る場所は、やはりこの部屋。あの手がある場所だ。
「にゃ(家こそ、吾輩の城である)」
ご主人様の足元に丸まり、ふわっとした幸せの中で、吾輩は再び夢の世界へと旅立ったのである。
次回、第22話:もち、ベッドの主と化す に続く。




