第19話:ご主人の涙の夜
夜の街は静まり返り、遠くでパトカーのサイレンがうっすらと響く。ぼろアパートの一室。時計の針が深夜を回ったころ、吾輩――もち――は、いつものように窓辺の小さな段ボール箱に丸まっていた。
ご主人、つまりみのりは、今日は随分と遅く帰ってきた。
しかも、いつもより元気がない。
「ただいま、もち……」
ドアを開けた瞬間のその声には、いつもの間延びした明るさがなかった。玄関で靴を脱ぐ動きも、カバンを床に置く手つきも、どこか力が入っていない。
吾輩はすぐに察した。
これは、ヤバいやつである。
「にゃ」
そっと足元にすり寄り、尻尾をくるんと巻きつけてご主人を見上げると、彼女は微笑んだ。
けれど、その笑みの裏に、何かが押し込められているようだった。
みのりは、ぼそりとつぶやくように言った。
「……また、仕事で失敗しちゃった」
なるほど。それは、それは……たいへんに、現実の闇である。みのりの勤めていた会社が、急な業績悪化で社内が殺伐としていてピリピリしていると、前に言っていた。
今日、それが現実になったのだ。
キッチンに立つ気力もないのか、冷蔵庫の中から残っていたプリンだけを取り出して、スプーンでぽつぽつと口に運ぶ。
もちのごはん皿にだけ、カリカリがちゃんと盛られているのが、逆に申し訳なくなってしまう。
「……もち、にゃんたに似てるって、最近よく思うの」
ご主人がふいに、ぽつりと言った。
「前に飼ってた猫。白くて、ふわふわで、甘えん坊で……あの子も、よく私が泣いてると、寄ってきてくれてたの」
吾輩は耳をぴくりと動かす。
「にゃんた」は、アルバムに写っていた、あの猫か。
「私ね、あの子を守れなかったんだよ」
みのりは、ぽつぽつと語り出す。あの夜のこと。まだ学生だった彼女が、風邪をひいて寝込んでいたとき、にゃんたが体調を崩していたことに気づけなかったこと。気づいた時にはもう手遅れで、病院に連れて行っても、にゃんたは戻ってこなかったこと。
「私、ほんとは猫なんか飼っちゃいけない人間だよ。仕事も安定してないし、部屋はボロボロだし、たまに寝坊するし……」
そこまで言ったところで、みのりの目から、涙がぽろりとこぼれ落ちた。
「……なのにさ、もちが毎日元気にいてくれて、それが嬉しくて怖いの。失いたくないって、思っちゃうのが、こわいの……」
吾輩は、何も言わず、ただそっと膝の上に飛び乗った。ぺろ、と手の甲を舐める。
「……もち?」
ご主人が顔を上げる。
「吾輩は、ここにおる。そなたがくだらぬ涙をこぼすたびに、舐めてやるぞ。安心せい」
もちろん、言葉にはならぬ。けれど、伝わったらしい。みのりは吾輩の背中を撫でながら、嗚咽をもらした。まるで、心の中の決壊が、一気に崩れたように。
「……ありがとう、もち。いてくれて、ありがとう」
その言葉が、吾輩の胸にじんわりと染みこんでいく。
人間というのは不思議な生き物だ。笑ったり、怒ったり、落ち込んだり。感情がころころと変わる。
だが、そんな不安定な彼女だからこそ、吾輩はそばにいてやりたいと思うのだ。
夜が更ける。
プリンのカップが空になり、みのりは吾輩を抱いたまま、布団に潜り込んだ。
「にゃんた……今度はちゃんと、大事にするから。もちのこと、ちゃんと守るからね……」
その声は、まるで天にいる誰かへの約束のようだった。
吾輩は、心の中でつぶやく。
「にゃんた殿。そなたの意志は、吾輩が引き継いだ」
ぬくもりの中で、ふたりは眠りにつく。たとえ明日がどんなに不安でも、今夜だけは、涙のかわりに、やさしい夢が彼女を包んでくれるように。




