第二章 第11話:ご主人の帰りを待つ長い夜
時計の針が午後九時を回った頃、ボロアパートの一室には、静けさだけが漂っていた。
「……にゃ」
吾輩は、玄関の前でちょこんと座り、じっと扉を見つめていた。
ご主人様――みのりが、まだ帰ってこない。
普段なら、七時にはガチャリとドアが開いて「ただいま、もちー!」の声がして、かすかにちゅ~るの香りが漂うのに、今日は違った。
ご主人様は、いつものように朝バタバタと出かけていった。
シャツのボタンをかけ間違えたまま、片手にパン、もう片手にカフェオレの缶。「時間ない!やばい!」と叫んで飛び出していく、そんな姿も今では吾輩にとって愛しい日常だ。
でも、今朝の彼女は少し様子が違った。
「うぅ……なんか、寒気する……」
そう呟きながら、ゆっくりと着替えを済ませ、顔色の悪さをごまかすようにマスクをして出ていった。
吾輩はその背中を、いつもより少し長く見送ってしまったのだ。
――だからこそ、余計に心配だった。
部屋にはテレビの音もつけていない。
ごはんにも口をつけず、布団にも入らない。
ただ、ただ、ひたすら玄関を見つめていた。
外から聞こえる物音に、何度もピクリと耳を動かす。
足音。
話し声。
郵便受けが開く音。
だがそのどれも、ご主人様のものではなかった。
「……にゃ」
気づけば、吾輩は何度目かの空振りに、丸くなった体を起こしていた。
ご主人様に会いたい。
ただそれだけで、こんなにも落ち着かない夜を過ごすのは、初めてだった。
時刻は十時を回った。
風が窓をカタカタと鳴らす。
誰かが廊下を通るたびに、ドアの前まで小走りするけれど、空振りばかり。
やがて、吾輩は玄関の前でペタンと座り込み、しょんぼりとうなだれた。
――その時だった。
「ガチャ……」
鍵の開く音。
「……もぢ~~~……ただいま~~……」
その声に、吾輩は飛び起きた。
ドアがゆっくりと開き、そこにいたのは、マスクをして目を潤ませた、見るからに満身創痍のご主人様だった。
コートの裾はほこりで汚れ、両手にはビニール袋。
その中身は、風邪薬と……猫用ちゅ~る。
「今日は……会議が地獄でさぁ……上司に詰められて……でも……もちに会いたくて……頑張って帰ってきたよ……」
鼻声でそう言って、よろよろと靴を脱ぐご主人様に、吾輩はにゃあにゃあと鳴きながら飛びついた。
ペロペロと手を舐め、顔をのぞき込む。
「はぁ……もち、ただいま。心配かけたね……」
手の甲が冷たい。
やはり体調は本格的に悪いのだ。
布団を敷いて薬を飲んだご主人様は、吾輩をそっと腕枕に抱き寄せる。
「風邪うつっちゃうかもだけど……そばにいて……」
吾輩は黙って、ぴたりと寄り添った。
人間は弱い。でも、だからこそ愛おしい。
吾輩がそばにいれば、少しでもその心細さを和らげてあげられるなら――。
この家に来た時のことを思い出す。
寒さに震え、何も信じられずにいた吾輩に、温かい毛布とミルクをくれたご主人様。
あの優しさを、今度は吾輩が返す番だ。
「にゃ」
そう小さく鳴いて、吾輩は丸くなった。
やがて、静かな寝息が聞こえてきた。
そのリズムに耳を傾けながら、吾輩も目を閉じた。
長い夜は終わる。
明日が少しでも明るい日になりますように。
吾輩は、ご主人様を守るのだ。
それが、吾輩の恩返し。
次回、第12話:はじめての動物病院・再び(ワクチン大戦)に続く。




