ミニャルディーズは幸せに 7
藍色の空に一番星が灯る頃、ぼくは新聞社に訪れていた。
星幽体で。
許しもなく、報せもなく、まったくの不意打ちで編集長室に入る。
絨毯は【光】の常夜燈に照らされ、執務机には蜜蝋燭が灯っていた。ふたつのひかりを浴びているリキュールグラスからは、紫の陰が落ちている。
ラリマー編集長は原稿に綴られた文字を、目で追っていた。
ふと、頤を上げる。
魔法を宿す瞳が、ぼくに焦点を結んだ。
色彩はどこまでも淡いけど、魔法空間で対峙した時と同じく闇を統べる強さがあった。
「カイユーくん。緊急事態かな?」
「………たぶん」
ぼくは窓からの夜空を背にして、ラリマー編集長を見据えた。
子爵家の末弟と呼ばれていたこのひとを。
エクラン王国に子爵家は二十いくつか。クラスメイトよりちょっと少ない程度。
八年前の事故の関係者という確率は低くない。
だけどぼくはその可能性は思いつきもしなかった。思いつきたくなかったのか。
「ご存じだったんですか? ………八年前、あなたの父親が、ぼくの両親を轢き殺した事故」
「きみの身元は真っ先に調べさせたよ。そもそも最初から、教授を狙う暗殺者か間諜かって疑ったからね。まさか先代子爵の被害者遺族とは」
「ずっと黙っていたんですね」
「ぼくの沈黙を裏切りだと受け取るかい?」
一瞥された。
青い眼差しに動揺という波紋は生まれない。
思考と感情が結晶になったような、揺らめきの無さ。
「………分かりません。ただ酔っぱらって乗馬していた子爵は許せない」
ラリマー編集長は頷いた。
穏やかに聞いてくれているけど、子爵はラリマー編集長のお父さんだ。悪く言われるのは不愉快だろう。
「すみません。ラリマー編集長のお父さんを悪く言って」
「カイユーくん。謝罪する義理も無ければ、必要も無い。正直、先代は貴族として褒められた人間性ではなかったよ」
「それでもお父さんですし……」
「まさかぼくが父親を慕っているけど、貴族の義務として、貴族らしからぬ先代子爵を厭っていると思っているのかな。それは甚だしい勘違いだ。勘違い。そう、ぼくも五歳くらいまで愚かな勘違いをしていた」
話の流れが読めず、首を傾げたまま聞く。
「ぼくに優しくしてくれて、使用人たちに傅かれている紳士。その紳士がぼくの父親だと思い込んでいた時期があった。隣にいる肥満は誰か知らないけど、偉そうだと不思議がっていたよ。なんてことはない、肥満の方がぼくの父で、紳士が子爵の愛人だった」
どうしてそこまで凄まじい思い違いをするのか。
……愛人を父親だと誤認してしまうほど、家族の交流が希薄なのか。
「あの肥満が父だと理解して以後も、ぼくは先代子爵を慕えなかった。だから忖度無く話して構わないよ」
それでも息子の目の前に父親を罵るのは、あまりに惨い。
「ぼくはあなたを嫌いになれない。セラだって友達だ。ずっと友達でいられなくたって、嫌いになりたくない。でも兄さんと姉さんに後ろめたいんです」
気持ちが呑み込めない。
セラが大事で、兄さんと姉さんも大事だ。
選べないし、選ぶつもりはない。
友人と家族なんて、どっちが大切か比べるものじゃない。そりゃいざとなったら生活共同体の家族を支えるのは当然だけど、気持ちの上で優先順位をつけたくなかった。
どうしていいか変わらない気持ちが大きくなりすぎて、ぼくには抱えきれない。
「何が後ろめたいんだい?」
「………ぼくが知っていること、兄さんと姉さんに黙っていていいんでしょうか」
微かな微苦笑が、ため息の形で漏れた。
「内緒にしておけないだろう。そのうちきみの保護者たちには噂で伝わるよ。セラくんが先代子爵の孫って話題は。早くとも数日中かな」
「予知ですか?」
「闇適性はからっきしだ。これは純粋な経験則。多くの人間はゴシップが好きだからね。真面目な魔術論文より、出所の分からない胡乱な噂に金を払う。馬鹿げた現実だけど、馬鹿にできない」
実感の込められた発言に、反論はできなかった。
ぼく個人としては魔術論文の方が面白いけど、新聞社を抱えているラリマー編集長にとってはそうではないのだろう。
「コラン兄さんは性格は悪くはないんたけど、なんというか………現実が苦手で」
「現実が苦手」
ぼくの思想にない観念だったので、思わず復唱してしまった。
「我が兄ながら三十三歳にもなって現実が不得手で、よく生きていけるものだよ。宮廷司書として図書に引きこもって、良くも悪くも世間知らずのお坊ちゃんのままだ。砂糖細工みたいな夢物語が大好きで、今回なんて死に別れたと思った初恋の美女が登場して、愛らしい息子がいた。もうそれに夢中になるよ、毎日押しかけるなんじゃないかな、四頭立て箱馬車で」
四頭立て馬車が毎日来たら、近所どころじゃなく噂なるぞ。
「だからきみの保護者の耳にも届くよ、そのうちに」
「………じゃあぼくから伝えた方がいいですね。変な噂が入るより、ずっといい」
「同意見だ」
「先代子爵の件は、セラには知ってほしくない」
「きみが言いたくないなら、ぼくから伝えてもいいよ」
「いえ、友達を悲しませたくないんですよ」
「水臭いって言われるかもしれないよ」
「それでも伝えるのは、嫌です。エマイユさんもお金を押し付けられて、コランドン氏も騙されて、セラは父親と暮らす子供時代を奪われた。みんな子爵の被害者じゃないですか。その上、さらにこんな話を伝えるなんて嫌です」
「それがきみの望みなら、ぼくも黙秘を己に科せよう」
ぼくを見つめる眼差しは、優しい空色だった。
たぶんこのひとは、優しい気持ちで、自分が子爵の息子だってこと黙ってたんだろう。
「カイユーくん。今ではなく成長した先、もしぼくの沈黙を裏切りだと改めて感じるのであれば、許さなくていい。己の主義や思想を変える自由がある」
「あなたを許せなくなるような成長はしたくないです」
先代子爵マルブルは許せない。
その気持ちを棄てるつもりはないけど、きっと広げちゃいけない。
ずっと貴族が嫌いだったけど、ラリマー編集長やニケル氏がそれを和らげてくれた。
「失礼します、ラリマー編集長………あの、また来ていいですか?」
「なるべく約束を取り付けてほしいね」
「前向きに努力します」
ぼくは星空を翔ける。
夜に瞬く星座たち。
どんなに泣きたい時も苦しい時も、星だけはいつだって綺麗だった。
セラの家庭の事情。変なところから耳に入る前に、兄さんと姉さんに説明した方がいい。
黙っているのは後ろめたいし。
ぼくは眠りにつく前に、食堂へと降りる。
兄さんは魔術誌を読み、姉さんは帳簿をつけていた。インクと紙と、それから香草茶の残り香が漂っている。
「ルイ兄さん、パティ姉さん、大事の話があるんだ」
「良い話? あまり良くない話?」
「あんまり良くない………」
項垂れて答える。
兄さんたちの反応が怖い。
「ぼくの友達のセラドンって知ってるっけ?」
姉さんはすぐ頷いた。
「ええ、貴族っぽい顔立ちの子でしょ。陶磁絵付けアトリエのお子さん」
姉さんの補足で、兄さんも頷いた。
「うん。セラね、今までずっとお父さんが分からなかったんだ。でも一昨日、分かって。お母さんとお父さんが感動の再会をしたんだ。セラのお父さんは子爵家の貴族でね、身分差のせいで引き裂かれていたんだけど、偶然、会えたんだ。セラを気に入って貴族の庶子にして、そんで祖名が増えたんだ」
「すごい! オペラみたいね! ………そこから良くない話に繋がるの?」
パティ姉さんは恐る恐る問う。
感動の再会と、親子の対面。この話がここまでだったなら、めでたしめでたしの大喝采で幕が閉じる。
だけど。
「セラの、祖名………セラドン・グレ=マルブルになった」
先に反応したのは、ルイ兄さん。
目つきを鋭くして、ぼくを凝視した。
「子爵といったな。子爵のマルブル?」
「………うん。その方はもう亡くなってて、子爵家当主は代替わりしてる。でもセラはそのひとの孫だったんだ」
食堂が沈黙に軋む。
最初に口を開いたのは、意外にも兄さんだった。
「カイ。お前はどうしたいんだ?」
「仲良くしたいよ。でも仲良くしてていいの?」
「当たり前じゃない」
ハスキーボイスが甲高く響く。
「あなたが仲良くしたいなら、絶交する理由なんて無いわ。セラドンくんは悪い子じゃないんでしょ」
「うん。ちょっと不思議ところがあるけど、自分の好きなものを好きって貫けるのかっこいいよ。でも、ぼくが子爵の孫と仲良くしていたら、姉さんたちは嫌じゃない?」
「あなたの友人関係に口出しするのは、お門違いでしょ。ねえ、ルイ」
水を向けられた兄さんは、しばし言葉を選ぶ。
「仲良くしている状態が辛いなら距離を置けばいい。そうでなければ今まで通りでいいだろう」
「でも、だって、セラは好きだけど、子爵の孫なんだよ。父さんと母さんにも悪いし………おじいちゃんだって……」
言葉にならなくなってきた。
項垂れていると、姉さんがぼくの手を取る。コロンとインクが混ざった香りが漂う指先は、母さんを思い出した。
「カイ。もうみんな神さまの身元へ逝ってしまったわ。そこは苦しみも悲しみもない、花の香りと蝋燭の明かりしか届かない幸せの天上。あなたが誰と仲良くしても、父さんも母さんもおじいちゃんも恨んだり苦しんだりしないのよ」
どうしてか母さんに言われている気分になった。
ほとんど記憶に無い母さん。
「そうかもしれないけど……後ろめたいよ」
「あなた自身が辛いなら、ルイのいう通りしばらく距離を置けばいい。時間が経てば仲良くなれるかもしれない。でも家族に罪悪感を持つ必要はないの。地上の家族も、天上の家族も、みんなあなたに幸せになってほしいんだから」
顔を上げる。
ぼくの手を握ってくれているのは姉さんだけど、母さんもここにいる感覚になった。




