ミニャルディーズは幸せに 6
カフェの奥には、室内の個室席もあった。
純白緞子ソファが並び、全員がゆったり座れる。
天井には古風な天使画。白漆喰の壁には凝った装飾が描かれ、間接照明である【光】の護符は金硝子に封じられている。白漆喰の装飾には、柔らかな黄金の光と陰影が描かれていた。
室内は優美なんだけど、泣きじゃくる声が絶えない。
「エマちゃん、ぼくだって分かるの? こんなでぶでぶになって、使用人たちからだって歩行式ラードって言われてるし」
「そんなひどいこと言われているの? 可哀想に。あなたは泣き虫ちゃんだから、使用人にも強く言えないでしょう」
「そうなの。言えないの」
コランドン氏はべそをかいて、エマイユさんはレースのハンカチーフで涙を拭いてあげている。
やや離れた場所にいるラリマー編集長は、すごい嫌そうな顔でマカロンを頬張っていた。兄が人前で泣きじゃくっていたら、気まずくなるかもしれない。うちのルイ兄さんが泣くのは、葬式くらいだけど。
ニケル氏はラリマー編集長の隣にいたけど、視線は犬たちと遊ぶプロンちゃんに向けていた。もうこの事態には関係なくなったとばかりに、犬たちとプロンちゃんの愛らしさを堪能している。
「ごめんね、エマちゃん。ぼく、泣き虫で」
「乾いた心でいるよりずっといいわ」
優しく蕩けるような囁きだ。なんだか聞いているだけで恥ずかしくなるくらい、甘い。
ラリマー編集長は太眉を顰めて、家紋入りのハンカチーフを出した。
「コラン兄さん、あんまり俯いていると鬱血するよ」
首の贅肉にハンカチを差し込む。
太り過ぎると、自分の贅肉からダメージを喰らうんだ。
すすり泣きが続く空間に、呻きが混じりだした。
「ぅ、うう……」
気絶したセラだ。寝椅子に横たわっている。眉間に皺を寄せたままだから、悪夢に魘されているみたいだ。
突然、青磁の瞳が開く。
「母さま! 父さまは死んだって言ってた!」
「ええ。子爵さまにそう言われたもの」
セラの悲鳴じみた詰問に、エマイユさんはふんわり答える。
「そのわりに生きてたの、すぐ納得したね。知ってたの?」
「知っていたわけじゃないけど、見え透いた嘘だったもの。爵位継承順の高そうな貴族なのに、社交欄に死亡記事が載らないなんてことあるかしら?」
確かに爵位相続の高い人間が亡くなったら、社交新聞に載る。
死亡したって騙されたけど、騙されきっていなかった。
「でもコランドンさんはお父様の嘘を信じてしまったのね。可哀想に」
エマイユさんはコランドン氏の頭を撫でてあげる。
コランドン氏からまだ涙は流れていたけど、微笑みになっていた。幸せそうに初恋相手を見つめる。
「エマちゃん、結婚しよう!」
「お断りさせて頂くわ」
華やかな笑顔で、甘い声で、紡がれたのは間違えようもない拒絶。
コランドン氏は面食らって、浅い水溜まりの魚みたいになっている。あとセラも。
「ど、どうして? 父上も母上も亡くなったよ。もう大丈夫」
「だってあなたって恋人としては可愛いけど、夫して頼りないじゃない。あなたみたいな頼りない殿方と一緒になって、貴族階級で社交するなんて真っ平だわ」
微笑みながら告げる。
残酷……いや、わりと事実っぽいし、辛辣なのかな。
「コランドンさんは身分の釣り合うしっかりしたご令嬢を……」
「やだぁああぁあああああっ!」
豪快に泣き出した。
涙の閾値が低すぎる。
「エマちゃんだけなのに! だって他の女の子は、爵位と財産目当てで……」
「わたくしもそうよ」
「知ってる!」
エマイユさんの言葉は早かったし、コランドン氏の返しも早かった。
「そんなの分かってる! エマちゃんだって、ぼくの爵位相続権と実家の財産が好きなんだって。でも他の女の子は、ぼくなんか邪魔だって思ってた。ぼくといっしょにいるのは、血筋とお金を得るための嫌な義務だった。だってぼく、中身もよくないし、見た目もよくないし……」
斜め後ろのラリマー編集長が、そっと頷いている。
そこで頷くのは、事実だとしてもちょっと可哀想なんじゃないかな。
「分かってるんだ。ぼくが、ぼくが無能だから、魅力が無いから、寄って来るのは爵位と財産目当てのひとばっかなんだって。兄さんとラリマーはきちんと友人もいて、ぼくは……」
泣き声が続きかけたけど、コランドン氏が自分で嗚咽を呑み込んだ。
「エマちゃんだけなんだ! エマちゃんだけが、ぼくを爵位と財産のかわいいオマケだって思ってくれていた。そうでしょ!」
エマイユさんは否定しなかった。
陶磁器めいた顔立ちに、哀しそうな、嬉しそうな、憐れむような、でも……やっぱりそのどれでもないような不思議な微笑みを浮かべて、コランドン氏を見下ろしていた。
「ぼくはかわいいオマケでいたいよ!」
泣きじゃくりは続き、嗚咽になり、肥満のせいなのかすぐ息切れした。
三重顎が紫がかっている。
窒息したんじゃないか?
なんともいえない湿度の沈黙で、最初に口を開いたのはエマイユさんだった。
「コランドンさん。あなたと結婚はしたくありませんけど、この子に祖名を名乗らせてあげてもいいかしら?」
視線がセラへ向けられる。
「父さまは、僕を、庶子として認めてくれる?」
「当たり前じゃないか! こんな愛らしい娘が、ぼくとエマちゃんに生まれていたなんて。春の花がきみの愛らしさに負けて、盛りを逃してしまいそうだよ」
可愛らしさを褒めちぎられて、セラはまんざらでもない感じだった。
「セラドンは息子よ」
「そうなの? どっちでも可愛いよ」
もうセラは完全に上機嫌になっている。
ぼくとしてはセラが辛くないなら、もうそれでいい。あとは他人の家庭の事情だ。
ちらっとアルへ視線を送る。
「いいんじゃねーか。コランドンさんは悪い人間じゃなさそうだし」
「そうだね……」
コランドン氏は父親からの嘘を信じ込んだり、涙もろかったりと、頼りない。
でも悪い貴族じゃなさそうだった。
屋根裏部屋に朝焼けが届けられて、目覚めた。
日の出が早い。明日からは牧草月だもんな。夏が来る。
顔を洗って着換えて、朝ごはんを食べ、筆記用具とお弁当を抱えて登校する。
「いってきます」
天候は心地よく、朝ごはんも美味しかったのに、足取りは重い。
もちろん肉体はいつだって重いし、湿っぽいし、枷だし、ちょっと煩わしさがある。でも今日は特に重くて狭い。
正門前でアルと鉢合わせた。
「おっす」
「おはよ」
短く挨拶を交わして、玄関に向かう。
「今日もセラは学校に来ないかな……?」
コランドン氏と会ってから、ずっと登校していない。
家族で今後の話し合いをしているんだろうな。どんな結果になったのかな。
「そりゃ貴族の子だったら、通学校なんて階級違いだ」
「寄宿校に移っちゃうのかな……」
「誘拐の危険があるんだから、それがいちばんだ」
割り切った口調だ。
そこまで割り切れない。
ぼくが卒業するまで、学校にはアルとセラがいると思っていた。残り僅かな時間、大事にしたかった。いきなり転校しちゃうなんて予想外だ。
両脚をなんとか交互に上げて、とろとろ階段を昇って行く。
「カイ、お前かたつむりになる気かよ」
「ほんとにかたつむりになったら、肉体は捨てるよ」
投げやりな気分で返して、教室のドアを開ける。
セラがいた。
華やかなレースのベストに、初夏を先取りした青のリボン。サテンの縁取りのキュロットに、真っ白いタイツを履いていた。
貴族の子息みたいな恰好だ。いや、みたいじゃない。
「……セラ」
ぼくは呆然としちゃったし、アルも似たような反応だ。何も言えないまま立ち尽くしてしまう。
そんなほくらに、セラは微笑む。
「おはよう。カワイイって聞くからカワイイって答えてよ。このコーディネート、カワイイ?」
「かわいいよ」
「かわいいぞ」
即答する。
いつもと同じやり取りだ。何も変わらない。
レースとか増えたけど、それ以外、セラはセラのままだった。
「僕の可愛さにびっくりした?」
「学校変わると思ってた」
「こんな中途半端な時期に転校しないよ」
「でも誘拐の危険性があるだろ」
「馬車で通うから平気。でも出席を減らして、上流向けの家庭教師をつけようかなって話になってたよ。僕はどっちでもいいんだけどねぇ」
相変わらず可愛さ以外の追及はしないんだな。
可愛らしさ至上主義。
「あとね、僕、祖名が増えたんだ」
「それが最優先で大事だろ」
アルの突っ込みも尤もだった。
「セラドン・グレ=マルブル。僕の祖名」
「良かったな」
「………」
先代の子爵の名前は、マルブル。
マルブル子爵。
ぼくの両親を馬で撥ねた貴族の名前だった。




