第八十九夜 ―― 結晶の誓いと、百夜の塩 ――
第八十九夜 ―― 結晶の誓いと、百夜の塩 ――
王宮の私室。今夜のテーブルには、料理は一切並んでいなかった。
ただ一つ、小さな黒檀の皿に盛られた、雪のように白い「塩」の山があるだけだ。
ザルカ王は、その一粒を指に取り、舌に乗せた。鋭い塩気が喉を突き、唾液が溢れ出す。
「……サフィア。塩か。これはかつて、金と同じ重さで取引された貴重な品だな。だが、これだけでは腹は膨れぬ。なぜ今夜、お前は余にこの『渇き』を強いるのだ」
サフィアは、自らも一粒の塩を口に含み、第八十九夜の語りを始めた。
◆ サフィアの語り 第八十九夜 ――「腐らぬ契約と、塩の友」
古の東方の国々には、最も厳格で、最も神聖な約束の形がありました。それを「塩の契約」と呼びます。
客人を迎えた主人は、まず塩を差し出します。二人が同じ皿から塩を舐めたその瞬間から、彼らは「塩の友」となるのです。
塩は、食べ物を腐敗から守り、その味を永遠に留めます。
ですから、塩を共に食べた者同士は、例え一方が地獄へ落ちようとも、決して裏切ってはならないという鉄の掟が生じました。もしこの誓いを破れば、その者の魂は塩に焼かれ、砂漠の塵となると信じられていたのです。
王様。金銀の財宝は盗まれ、甘い蜜は腐ります。しかし、この一粒の塩に込められた『信頼』だけは、時が経っても、雨に降られても、決して変わることはありません。
サフィアは語り終え、じっと王を見つめた。
王は、机の上の塩の山を、愛おしそうに、あるいは恐ろしそうに眺めていた。
「……塩の友、か。サフィア、余の周りには、甘い言葉を囁く者は腐るほどいた。だが、余と共に苦い塩を舐めてくれる者はいなかった」
ザルカは顔を上げ、サフィアの瞳の奥を覗き込んだ。
「……気づけば、もう九十夜近く、余はお前の物語を聞いてきた。共に笑い、共に憤り、共に飢えを知った。サフィア……余とお前も、もう『百夜の塩』を十分に食べてきたのではないか」
王の手が、迷いながらもサフィアの手に重なった。
それは、支配者が獲物を掴む手ではなく、一人の人間が、唯一の理解者を求める震える手だった。
「明日からは、もう物語だけではない。お前という存在そのものが、余の乾いた魂に深く染み込んでいるようだ。……この塩の契約、余は決して破らぬぞ」
夜の帳が、二人の間に生まれた新しい絆を固く結ぶように、静かに、そして揺るぎなく降りてきた。




