第八十八夜 ―― 五つのパンと、二匹の魚 ――
第八十八夜 ―― 五つのパンと、二匹の魚 ――
王宮の広間。窓からは、月光が冷たく差し込んでいる。
ザルカ王は、自らの痩せた腹をさすり、静かに言った。
「……サフィア。四十日の断食を経て、余の目は澄んだ。だが、一つだけ分からぬことがある。余が蓄えた巨大な穀物庫、あれは余の力を示す『盾』だと思っていた。だが、もし飢えた民が押し寄せれば、あれはたちまち空になり、余の力も潰えるのではないか。……有限なものを分け合うことは、恐怖ではないのか」
サフィアは、籠の中から小さな「五つのパン」と「二匹の魚」を取り出し、第八十八夜の語りを始めた。
◆ サフィアの語り 第八十八夜 ――「湖畔の奇跡と、溢れる籠」
ある夕暮れ時。荒野で聖者の言葉に耳を傾けていた五千人もの人々が、空腹に倒れようとしていました。弟子たちは困り果て、彼らを解散させて村へ帰そうと提案しました。手元にあるのは、一人の少年が差し出した「五つの大麦のパンと二匹の魚」だけだったからです。
しかし、聖者はそのわずかな食べ物を手に取り、天を仰いで感謝を捧げると、それをちぎって人々に分けるよう命じました。
『……足りぬことを恐れるな。ただ、分かち合う喜びを知るがよい』
不思議なことが起きました。パンをちぎっても、ちぎっても、その手からは次のパンが溢れ出しました。魚もまた、尽きることなく人々の手に渡っていきました。
五千人の人々が満腹になるまで食べ、余った欠片を拾い集めると、なんと十二の籠がいっぱいになったのです。
奇跡は、魔法で食べ物を生み出したのではありません。「分かち合おう」という聖者の慈悲が、人々の心にある「独占」という名の呪いを解き、隠し持っていたわずかな糧さえも差し出させる、魂の連鎖を起こしたのです。
サフィアは語り終え、王の前に一切れの魚を差し出した。
「王様。食糧を独占すれば、それはあなたを守る『壁』になりますが、同時にあなたを閉じ込める『牢獄』にもなります。しかし、それを民に開けば、食は『慈悲』という名の、決して崩れぬ城壁となるのですわ」
ザルカは、その小さな魚を口に運び、噛み締めた。
「……食は権力ではなく、慈悲。サフィア、余は今まで、民が空腹であることを『御しやすい』と考えていた。だが、それは間違いだったのだな。共に満たされることこそが、真の王道……。余の穀物庫の扉は、明日、すべて開かれるべきなのかもしれぬ」
王の横顔には、かつての冷酷な支配者の影はなく、ただ慈しみを知り始めた一人の男の静かな決意が浮かんでいた。
「サフィア。奪うことで増えるものは何もない。……与えることで溢れ出す、あの不思議な『十二の籠』を、余もこの国で見てみたいものだ」
夜の帳が、奇跡の余韻を噛み締めるように、穏やかに、そして温かく降りてきた。




