第五十一夜 ―― 白檀(びゃくだん)の筏と、最後の手向け ――
第五十一夜 ―― 白檀の筏と、最後の手向け ――
王宮のバルコニーからは、遠くの波頭が銀色に輝いているのが見える。
ザルカ王は、教王スウードから贈られたという古い羊皮紙の地図を広げ、その余白を見つめた。
「……サフィア。六度の死線を越え、教王の信頼まで勝ち取ったスィルハール。もう十分だろう。これ以上、彼は何を求めて海へ出るというのだ。運命を試すのも、いい加減にせぬか」
サフィアは、芳香を放つ「白檀の小箱」をそっと開き、第五十一夜の語りを始めた。
◆ サフィアの語り 第五十一夜 ――「第七の航海と、海の怪物の顎」
スィルハールは、もう二度と海へは出ぬと誓っていました。しかし、教王スウードの強い願い――遠き島の王への「返書と進物」を届ける大役を、断ることはできませんでした。
『……これこそが、私の最後の航海となるだろう』
不吉な予感は的中しました。役目を終えた帰路、突如として海面が盛り上がり、山のような「海の怪物」が現れたのです。怪物は巨大な口を開け、スィルハールの乗った船を、乗組員もろとも一飲みにしました。
しかし、運命はまだ彼を放しませんでした。
スィルハールは船の破片にしがみつき、命からがらある島へと漂着しました。そこには、香りの高い「白檀」の木が自生していました。彼は手慣れた手つきで白檀を組み、筏を作って川を下り始めました。
川下は恐ろしい断崖となっていましたが、岸辺で彼を見守っていた一人の「親切な老人」が、網を投げて彼を救い上げてくれたのです。
『……旅人よ、この木は何だ? お前が筏にしているのは、この世で最も高価な白檀ではないか!』
老人はスィルハールを街へ連れて行き、筏の材料だった白檀を市場で競り合わせ、想像を絶する高値で売り抜けてくれました。さらに老人は、スィルハールにこう申し出たのです。
『私はもう長くはない。どうか、私の娘を妻とし、私の莫大な財産を継いでくれぬか』
スィルハールは老人の慈悲深さに打たれ、その申し出を受け入れました。やがて老人が安らかに息を引き取ると、スィルハールはその街で最も裕福な主となったのです。
サフィアは語り終え、白檀の箱を王に手渡した。
「王様。スィルハールが最後に手にしたのは、略奪した宝石でも、王からの褒美でもありませんでした。それは、見知らぬ老人が彼に託した『信頼』と『愛』でしたの。……戦いの果てに待つのは、誰かに『後を継いでほしい』と願われる、そんな静かな絆なのかもしれませんわ」
ザルカは、白檀の箱から漂う気品ある香りを深く吸い込んだ。
「……最後の手向け、か。サフィア、余もこれまで多くの血を流し、多くの財を奪ってきた。だが、余が死ぬ時、誰かが余の財産ではなく、余の『魂』を継ぎたいと言ってくれるだろうか」
王の横顔には、かつての孤独な覇王の影はなく、次世代へ繋ぐべきものを探す「父」のような慈愛が兆していた。
「だがサフィア。この平和な街で、彼はついに冒険を終えるのか? ……この街には、まだ語られていない『不思議』が隠されているのではないか」
サフィアは悪戯っぽく微笑み、夜空に群れる渡り鳥を指差した。
「この街の男たちには、春になると『翼』が生えるという秘密がございました。……スィルハールは、その翼にぶら下がり、天の高みへと昇ることになりますわ」
夜の風が、白檀の香りを乗せて、天高く舞い上がっていった。




