第四十五夜 ―― 忘却の食卓と、革の座(くら) ――
第四十五夜 ―― 忘却の食卓と、革の座 ――
交易都市の広場には、着飾った異国の使節たちが集い、色とりどりの「鞍」を乗せた駿馬たちが列をなしている。
ザルカ王は、自らの愛馬の鞍を愛おしげになぞり、その革の匂いを嗅いだ。
「……サフィア。三度の地獄を越えたスィルハールが、今度は『知性』そのものを奪われるというのか。肉体を食われるよりも、人間であることを忘れる方が、余には恐ろしく思えるな」
サフィアは、馬のいななきに似た風の音を聞きながら、第四十五夜の語りを始めた。
◆ サフィアの語り 第四十五夜 ――「食人種の島と、鞍なき王国の奇跡」
四度目の航海に出たスィルハールの船は、またもや嵐に遭い、見知らぬ島に打ち上げられました。そこには、一見すると親切そうな「食人種」の村がありました。
彼らは遭難したスィルハールたちに、見たこともない豊かな食物を差し出しました。仲間たちは空腹に負け、貪り食いましたが、彼らは食べるうちに目が虚ろになり、言葉を忘れ、ただ家畜のように太るだけの「知なき獣」へと成り果ててしまったのです。
スィルハールだけは、その不気味な食物に一切手をつけず、野草を食べて飢えを凌ぎました。
『……魂を売ってまで肥え太りたくはない。私は、人間として死ぬのだ!』
彼は骨と皮ばかりになりながらも、食人種の隙を突いて逃げ出し、島の反対側にある栄えた港町へと辿り着きました。
そこは驚くほど豊かな国でしたが、一つだけ奇妙なことがありました。
人々は立派な馬を飼っているのに、皆、裸馬に直接またがっていたのです。彼らは「鞍」や「鐙」というものを知りませんでした。
スィルハールは、得意の革細工と金銀の装飾を駆使し、王のために最高級の「鞍」を作り上げました。
初めて鞍に座った王は、そのあまりの乗り心地の良さと、落馬の心配がない安定感に、雷に打たれたような衝撃を受けました。
『……スィルハールよ! お前は我が国に、天の知恵をもたらしたのだ!』
スィルハールは一躍、国の英雄となりました。彼は富と名声、そして美しい邸宅を与えられ、王の強い勧めで、現地の貴婦人と結ばれることになったのです。
サフィアは語り終え、王の馬の鞍にそっと手を添えた。
「王様。スィルハールを救ったのは、剣でも魔法でもありません。彼が故郷で当たり前だと思っていた『鞍』という知恵でした。……自分が当たり前だと思っていることが、他所では『奇跡』に変わることもあるのですわ」
ザルカは、鞍の鐙を強く踏みしめた。
「……当たり前の知恵、か。サフィア、余の国にある古い慣習や道具も、見方を変えれば、隣国を平伏させる『奇跡』になるのかもしれんな。だがサフィア。この平和な暮らしの先に、あの忌まわしい『生き埋めの法』が再び現れるというのか?」
サフィアは悲しげに瞳を伏せ、遠くの墓所を指差した。
「第四十六夜。幸せの絶頂で、最愛の妻が病に倒れます。……そしてスィルハールは、かつて脱け出したはずの『死者の井戸』へと、再び投げ込まれることになるのですわ」
夜の風が、墓所の扉を叩くような音を立てて吹き抜けた。




