第三十九夜 ―― 海の種馬と、異国の港湾隊長 ――
第三十九夜 ―― 海の種馬と、異国の港湾隊長 ――
波止場に打ち寄せる波は、昨日よりも穏やかに岸壁を洗っている。
ザルカ王は、サフィアが焚いた香草の煙を吸い込み、海水の塩分で強張った体を解きほぐしていた。
「……サフィア。洗濯桶一つで生き延びた男が、次に辿り着いたのは、またもや化け物の住処か? それとも、今度こそ人の情けがある場所なのか」
サフィアは、異国の馬の嘶きを模すように、指先を小さく弾いて第三十九夜を語り始めた。
◆ サフィアの語り 第三十九夜 ――「アブダビ王の馬番と、月夜の交配」
鯨の背中から放り出され、一昼夜の漂流を経てスィルハールが辿り着いたのは、切り立った崖に囲まれた不思議な島でした。
彼が泥にまみれて這い上がると、そこには美しい牝馬が一頭、波打ち際の杭に繋がれていました。不思議に思って眺めていると、地面の中から一人の男が飛び出してきたのです。
『……おい、お前は何者だ! この神聖な儀式を邪魔するつもりか!』
男は島の下に掘られた穴に住む「アブダビ王の馬番」でした。
彼らが語るには、この島には満月の夜、海の中から「海馬」という伝説の種馬が上がってきて、繋がれた牝馬と交わるといいます。そうして生まれる仔馬は、風よりも速く、波の上をも駆けるという天下の名馬となるのです。
スィルハールは、自らの数奇な冒険――生き埋めの底から、鯨の背中の島まで――を包み隠さず語りました。
その壮絶な体験と、死地を潜り抜けてきた男の放つ輝きに、馬番たちは深く感銘を受けました。
『……これほどまでに運命に愛された男は見たことがない。我らが王、アブダビ様にお会いなさい』
アブダビ王は、ボロを纏いながらも王者の如き気品を持つスィルハールを一目で気に入り、彼を厚遇しました。
『スィルハールよ。お前のその「海を知る知恵」を我が国に貸せ』
こうして、一介の漂流者であったスィルハールは、異国の地で「港湾隊長」という重職に任命されたのです。彼は毎日、港に入り混じる船を検分し、異国の商人と語らいながら、失ったはずの富と名声を、自らの実力で再び築き上げていきました。
サフィアは語り終え、砂の上に蹄のような跡を描いた。
「王様。スィルハールを救ったのは、魔法のランプでも指輪でもありません。彼の語る『冒険の話』と、積み重ねてきた『知識』でした。……人はすべてを失っても、語るべき物語がある限り、再び立ち上がることができるのですわ」
ザルカは、港で忙しなく働く役人たちの姿を眺めた。
「……物語が、地位を創るか。サフィア、余もこの旅が終わった時、民に語るべき言葉を持っているだろうか。ただの勝ち戦の自慢ではなく、泥にまみれ、鯨に振り落とされた痛みの記録をな」
王の表情には、権力への執着ではなく、人間としての深みが増していた。
「だがサフィア。港湾隊長として成功したスィルハールは、そのまま異国の英雄として生涯を終えるのか? ……彼は、あの懐かしい都を捨てたわけではあるまい」
サフィアは、水平線の彼方に沈む月を見つめた。
「第四十夜。港に入ってきた一隻の船。そこに積まれていたのは、かつて鯨の背中で失ったはずの『自分自身の過去』でした。……運命の回収が始まりますわ」
夜の海馬が、どこかでいななき、波を蹴立てる音がした。




