第三十八夜 ―― 偽りの大地と、鯨の呼吸 ――
第三十八夜 ―― 偽りの大地と、鯨の呼吸 ――
港の夜は、出航を待つ帆船の軋む音で満ちている。
ザルカ王は、波止場に腰を下ろし、海水の飛沫を浴びながら自身の剣を研いでいた。
「……サフィア。墓所を脱出したスィルハールは、二度とあのような暗闇には戻らぬと誓ったはずだ。なのになぜ、再び死の危険がある海へと向かうのだ」
サフィアは、船乗りたちが愛飲する強い酒の香りを纏わせ、第三十八夜を語り始めた。
◆ サフィアの語り 第三十八夜 ――「第一の航海と、動く島の戦慄」
地獄から生還し、死者の宝石で巨万の富を得たスィルハールでしたが、彼の魂は安寧を拒みました。
『……私は、世界をこの目で見なければならぬ。命を賭けて得たこの金で、さらなる運命を買い取るのだ!』
彼は大きな船を買い、商品を満載して、数多の商人と共に大海原へと乗り出したのです。
航海は順調でした。ある日、見渡す限りの青い海の中に、緑豊かな美しい島が姿を現しました。
乗客たちは歓喜し、次々と島に降り立ちました。ある者は洗濯をし、ある者は薪を集めて火を焚き、旅の疲れを癒やすための宴を始めました。
しかし、スィルハールがその大地の「肌」に触れた瞬間です。
足元が、巨大な太鼓を叩いたかのように大きく波打ちました。
『……逃げろ! 船に戻れ! これは島ではない!』
船長の絶叫が響きました。彼らが島だと思い込んでいたのは、海面に浮かんで眠っていた「巨大な鯨」の背中だったのです!
焚き火の熱に驚いた鯨は、深い溜息と共に海中へと没していきました。
逃げ遅れた乗客たちは、渦巻く波に飲み込まれ、藻屑と消えました。船長は混乱の中で帆を上げ、生き残った者だけを乗せて、必死の思いで逃げ去ってしまったのです。
スィルハールは、荒れ狂う波間にたった一人取り残されました。
彼は、誰かが流した大きな洗濯桶に必死にしがみつき、一昼夜、死の恐怖に耐え続けました。
そして翌朝。体力の限界を迎えた彼の前に、再び「本物の大地」が、崖を切り立たせて現れたのです。
サフィアは語り終え、足元の砂を指で掬った。
「王様。昨日まで信じていた『大地』が、今日は自分を飲み込む『怪物』に変わる。……海の上では、確かなものなど何一つございません。頼れるのは、しがみついた一つの桶と、己の腕の力だけなのですわ」
ザルカは、研ぎ終えた剣を鞘に納めた。
「……鯨の背中か。余の国も、一見すれば緑豊かな大地に見えるだろう。だが、民の不満という熱が加われば、いつ背中を丸めて余を振り落とすか分からぬ、ということだな」
王は、不安定に揺れる足元の波止場を強く踏みしめた。
「サフィア。漂流したスィルハールが辿り着いたその島は、今度は彼を歓迎してくれるのか? それとも、鯨よりも質の悪い怪物が待っているのか」
サフィアは微笑み、遠くの水平線を見つめた。
「第三十九夜。その島には、月の光で交配する『海馬』と、不思議な穴に住む人々が待っております。……スィルハールの冒険は、ここから真の輝きを放ち始めるのです」
夜の海が、まるで巨大な生き物の呼吸のように、静かに、深く、揺れていた。




