未練
黒の暗殺者の刃さえ退ければ、生き延びられると思っていた。
その先に待っていたものが、この絶望なのか。
「この核兵器は、従来のものとは桁違いの威力だと聞いている。東京だけでは済まない。神奈川も、埼玉も、千葉も呑み込まれる……」
暗殺者は、立ち上がろうともしなかった。
「ここも安全ではない。じきに爆風が来る」
ぼくは街の方へ向き直った。
膨れ上がった巨大な火球は、街を覆い、丘陵を越え、ぼくたちのいる山へ迫っていた。
その時、空間が破裂したような轟音が響いた。
ハルカが耳を塞ぎ、ぼくも身を強張らせる。
爆発音が、ようやくここまで届いたのだ。
あの向こうに、ぼくの家がある。
母さんは、家にいただろうか。
父さんは、仕事に行っていただろうか。
もし今あの街にいたとしたら、爆発の一瞬で身体は焼き尽くされていただろう。何が起きたのかも、まるで分からないまま。
力が抜け、ぼくは膝から崩れ落ちた。
自分の死には、あれほど慣れたのに。家族の顔を思い浮かべただけで、まともに息すらできない。
ぼくが、あの動画を投稿しなければ……
ぼくはただ、その滅びの光景を見つめた。
すると、光の中で、何かが蠢いていることに気付いた。
煙ではない。黒いものが、次々と上空に浮かんでいく。
長い腕。ねじれた体。
大きな赤い一つ目。
ぼくは、あれを知っている。
マリスだ。
街のあった場所から、夥しい数のマリスが生まれていた。
その一体一体が、ついさっきまで生きていた人間だ。
彼らはこれからレヴェリアへ行き、人々を襲う。
そして、ぼくたちももうすぐ……
『ぐすっ……パパ、ママ……お別れしたくないよ』
頭の中にトワの泣き声が響いた。
「大丈夫だよ、トワ」
ぼくは見えないトワに向けて手を伸ばした。
「ぼくは、またやり直す。ハルカと一緒に、また向こうの世界のトワに会いにいくから」
『……それは、トワじゃないんだよ』
トワは全てを見透かしているようだった。
『パパがやり直して、ママとの間にまた赤ちゃんが生まれても……その子は、トワじゃないんだ』
ぼくは言葉を失った。
同じ道をたどれば、同じ未来が訪れる。
これまではそう思っていた。
けれど、改めて気付く。
生まれてくる子供がぼくとハルカからどの遺伝子を受け継ぐのか。それは偶然に左右される。
ぼくとハルカがもう一度出会い、愛し合ったとしても、全く同じあの子が、もう一度生まれてくる可能性はゼロに近い。
「トワ……」
やっと分かった。
命の巡り合わせは奇跡そのものだ。
親ガチャ失敗なんて不平も言っていたが、ぼくが今ここにいることだって同じだ。
「すまない……せめてもう一度、顔を見られたら……」
叶うことなら抱きしめたかった。
返ってきたのは、泣き声だけだった。
「カナタさん!」
涙を流したハルカが胸に飛び込んできた。
ぼくは彼女を抱きしめた。背中に回された腕が、痛いほど強くぼくを締めつける。
あらゆるものを吹き飛ばす灰色の壁が、山の稜線を越えた。
木々が一斉になぎ倒される。
ぼくはハルカの頭を胸に抱え込んだ。
地面が消えた。
そう思ったときには、ぼくたちの体は宙に浮いていた。
もう何も見えない。
腕の中の温もりだけを、必死につなぎ止めた。
体の感覚がなくなっても、抱きしめていた。
ぼくの最初の未練は、消してしまったSNSのアカウントだった。
一生懸命に積み上げてきた数字。
あの頃のぼくには、それを失ったことが大きな心残りだった。
けれど今は、トワの声が耳から離れない。
生まれたばかりの頃、いつも親指をしゃぶっていたトワを思い出す。
ずっと、あの子の父親でいたかった。
やり直したい。
今度こそ、誰も失わずに済むところまで。
戻るべき日は、あの動画を投稿する前だ。
一週間前。
その一週間を取り戻すには、レヴェリアで二百年近く生きなければならない。
これまで、ぼくが生き延びられたのは、長くても一年ほど。
その一年さえ、何度も死を繰り返して、ようやく手に入れたものだった。
二百年。
レヴェリアを生きる人間にも寿命はある。
どうすれば、人の一生を超えるほどの長い時間を生きられる?
答えなんてない。
それでも、諦められない。
腕の中には、まだハルカがいる。
もう力は入らない。それでも、離したくなかった。
トワ。
ハルカ。
まだ、一緒にいたい。
ぼくとハルカは未練を抱えたまま死んだ。
そして、二人はマリスになった。
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