悪夢の渡河
ぼくは壁の上を駆け、西地区へ向かう。
眼下には、街に沿って流れる広い川が見えた。
水面に目を向けても、泳いでいるマリスの姿は一体もない。
一体どうやって壁を越えたのだろうか。
考えながらしばらく走ると、信じられない光景が飛び込んできた。
川の中に、いくつもの家が積み上げられている。
「あれは……街の家?」
どれも霧の街に建っていた家だ。
いくつもの家が乱雑に積み重なり、川の対岸からこちらの壁まで連なっている。
それはまるで、家を積み上げて無理やり作った階段だった。
そして、その上を黒い異形が次々と渡ってくる。
壁を越えたマリスは、そのまま街の中へ飛び降りていく。
すでに壁の内側では、兵士たちとマリスの戦闘が始まっていた。
悲鳴と怒号、剣戟の音が入り乱れている。
ぼくは剣を抜き、登ってきたマリスへ駆けた。
「これ以上、街には入れない!」
伸びてくる細く鋭い腕を剣で弾く。
そのまま懐へ飛び込み、赤い目に剣を突き立てた。
マリスの体が大きく震え、その場に崩れ落ちる。
まずは一体。
だが、もう次のマリスが向かってきている。
腕をかわし、剣で払い、赤い目を狙う。
しかし、その後ろからも次々とマリスが登ってくる。
さすがに、この数を一人で止めるのは無理がある。
「くっ……!」
横から伸びてきた腕をかわした瞬間、次一撃がぼくの剣を弾いた。
ぼくは体勢を崩し、川に積み上げられた家の屋根に投げ出された。
「ぐっ……!」
背中を強く打ちつける。
すぐに起き上がろうとしたが、足元が安定しない。
対岸から渡ってきたマリスたちが、次々とぼくの周囲に集まってくる。
「まずいな……」
前にも後ろにも、黒い異形。
細く鋭い腕が、一斉にぼくを狙った。
だが足場が悪すぎて、いつものようには動けない。
振り下ろされたマリスの触手をかわそうと、一歩後ろに下がったその瞬間、足元の屋根が大きく傾いた。
「落ちる!」
屋根が家から剥がれ、ぼくはそのまま川へ落下した。
冷たい水が全身を包む。
思った以上に深い。
「ぷはっ!」
慌てて水面へ顔を出す。
積み上げられた家の上では、マリスたちがこちらを見下ろしている。
ここからあそこには登れそうにない。
ぼくはそのまま対岸を目指して泳ぎ、どうにか向こう岸へたどり着いた。
「はぁ……はぁ……」
岸に手をつき、濡れた体を引き上げる。
「まあ、生きていらっしゃるのね。お強いこと」
「……!」
突然、背後から女の声がした。
ぼくは弾かれたように振り返る。
そこに、小柄な人物が立っていた。
頭から深くフードを被り、顔はほとんど見えない。
その姿を見た瞬間、先日の記憶が蘇った。
夜の街。
フードを被った人物。
「お前……」
間違いない。
あの夜、ぼくが出会った人物だ。
そして、こいつと出会った直後から、ぼくの記憶は抜け落ちている。
「ごきげんよう」
女は優雅に一礼した。
「あなた、本当に丈夫なのね。あの状況で、まだ生きていらっしゃるなんて」
女の声は嬉しそうだった。
「あなたは、とても貴重な存在。ここで失ってしまうのは惜しいですわ。ですから――」
フードの奥で、二つの目が赤く光る。
「ずっと、わたくしの僕にして差し上げますね」
「――っ!」
まずい。あの目だ。
視界が揺らぎ、頭の中が急速に白くなっていく。
目を逸らそうとしても、体が動かない。
抗おうとしても、その思考そのものが消えていく。
そして、ぼくの意識は再び真っ白に塗り潰された。
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