残響
不思議なマリスはただ、ぼくを見つめているだけだった。襲ってくる気配はない。
ぼくは頭をよぎった考えを無理やり振り払う。
このマリスがハルカのはずがない。
ハルカは今も霧の街にいる。
ぼくはそのマリスに背を向け、地下洞窟の中を駆け出した。
途中、何体ものマリスと遭遇した。
どれもぼくに気づくと赤い瞳を向け、攻撃してきたが、今は剣を振るう気になれなかった。
触手をかわし、身を翻し、ただ出口だけを目指して走り続けた。
やがて前方に光が差し込む。
「……ここは」
その時ぼくは気付いた。
ここは、ぼくがレヴェリアへ来るたび、最初に目を覚ますあの洞窟だ。
ずっと地下深くまで続いていたのか。
ぼくはそのまま洞窟を飛び出した。
地上は、前回よりさらに多くのマリスで埋め尽くされていた。
ぼくは必要最低限だけ剣を振るい、マリスたちの間を駆け抜ける。
やがて馬車のもとへたどり着くと、ミラや他の兵士たちが駆け寄ってきた。
「カナタ様、ご無事で何より!」
「穴の底へ落ちた時は、もう駄目かと思ったよ」
あちこちから安堵の声が漏れた。
だが、ぼくの耳にはほとんど入ってこなかった。
あの洞窟で出会ったマリスの声が、残響のように頭から離れない。
それ以上戦う気力も湧かず、ぼくたちは霧の街へ引き返すことにした。
「まあ、不測の事態だ。戦死者が出なかっただけでも良しとしようじゃないか」
結局、この日の討伐で大きな戦果を挙げることはできなかったが、ミラは気にしもしていない様子だ。
そしてぼくの心には大きな疑問が残った。
――マリスとは、一体何だ?
これまでただの異形の怪物としか思っていなかった。
だが、あの時聞こえた声だけは、どうしても忘れられなかった。
◇ ◇ ◇
霧の街へ戻ると、ぼくは脇目も振らずハルカのいる霧の塔へ向かった。
もし、あのマリスがハルカと関係があるのなら――。
塔の扉を開く。
「ハルカ!」
返事はない。
ぼくは塔の石段を駆け上る。
ハルカの作業場に辿り着くと、彼女は大きなキャンバスへ向かったまま、一心不乱に筆を動かしていた。
声には出さなかったが、ぼくは心の底から安堵した。
「ハルカ、入るよ」
平静を装って声をかけると、彼女は振り返った。
「カナタさん、お帰りなさい……」
そして大きく口を開けた。
「まあ、お顔にお怪我をされていますね。傷の具合はどうですか?」
「ああ、かすり傷だよ」
マリスにやられた頬の傷は既に縫ってもらっている。
実際のところは、あと少しで穴が空いてもう一つ口が増えるところだったが、ぼくは何事もないように答えた。
「この街のためにありがとうございます。心より感謝いたします。そして、ご無事で本当に良かったですわ」
僕の帰還を喜んでくれていることは伝わってくる。しかし、その表情には疲れも滲んでいる。
「ずっと描いてたの?」
「はい」
「もしかして、昨日から徹夜で?」
「……はい」
ハルカは少し口ごもりながら答えた。
「早く壁を完成させなければいけませんから」
ぼくは窓の外を見る。
街を囲む壁は、まだ三分の一にも届いていなかった。
絵で創造するとしても、この広大な街を壁で囲むことは簡単ではない。
彼女はすべての壁を完成させるまで、一睡もしないつもりだろうか。
これでは、レオンに無理やり働かされていた時と変わらない。
「マリスが来るまでにはまだ時間がある。ちゃんと休んだ方がいい」
「ですが……」
それでも作業を続けようとするハルカを見て、ぼくは彼女をここから連れ出した方が良いと感じた。
ここにいる限り、彼女は筆を動かすだろう。
「そうだ。うちに来ない? ハルカに創ってもらった家だけど」
「カナタさんの?」
「そう。来てくれたらご馳走するよ」
「まあ!」
ハルカの表情がばっと明るくなった。
「カナタさんの手料理ですか? それはお伺いするしかありませんわね」
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