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9話




空は常に、石炭の煙と鉄を叩く重低音に支配されている。


アイアン・ジャンクション。かつては荒野に過ぎなかったこの地は、今や巨大な蒸気機関の鼓動が脈打つ「鉄の心臓」へと変貌していた。


無数に張り巡らされたレールの先には、完成すれば国を動かす富を運ぶはずの、巨大な鉄道網が延びている。


その喧騒を眼下に見下ろす小高い丘の上に、ウィリアム男爵の屋敷はそびえ立っていた。街を覆う煤煙すら届かぬ高みから、彼は自らの帝国を眺めている。


ウィリアム男爵という男を形成しているのは、高潔な志でも貴族としての誇りでもない。それは、湿った金貨の臭いと、底なしの強欲だった。


彼は元々、父から受け継いだしがない金融業者に過ぎなかった。だが、その本質は「高利貸し」である。


持たざる者から最後の一滴まで搾り取り、返せぬ者からは人生そのものを担保として取り上げる。その冷酷な商才によって築き上げられた莫大な富が、彼を「男爵」という地位へとのし上げた。金で買った爵位——それが彼にとっての勝利の証だった。


貴族の端くれとなった彼は、その権力を利用してさらなる蜜を求めた。本業の金貸しに加え、公共事業へと次々に手を広げたのだ。


「丈夫な橋など必要ない。次の嵐まで持ちこたえれば、修繕費でまた稼げる」


そんな哲学のもと、徹底した手抜き工事で浮かせた裏金を懐に入れ、彼はこの街で栄華を極めていた。


だが、そんな彼に目をつけたのがブラスター侯爵だった。


「鉄道事業の総責任者になれ」


その命令は、一見すれば名誉ある抜擢だが、実際は狡猾なブラスター侯爵が、汚れ仕事に慣れた「金貸し上がり」を隠れ蓑に選んだに過ぎなかった。


鉄道事業というものは、国家の威信をかけた巨大プロジェクトであると同時に、底なしの泥沼でもある。過酷な納期設定、遅延を許さぬ中央からの圧力。そして何より、線路を敷くために先祖伝来の土地を追われる住民たちの呪詛に近い怨嗟。


侯爵は、自らの手を汚すことを嫌った。


(高貴な私が、泥にまみれた平民どもと土地の買収交渉などできるか。恨みを買う役目は、代わりがいくらでもいる下の者にやらせればいい)


そこで白羽の矢が立ったのが、ウィリアム男爵だった。


金で爵位を買い取り、成り上がっただけの男。いかに街で栄華を極めようと、伝統ある貴族社会から見れば、彼は「金貨を数えることしか能のない豚」に過ぎない。もし事業が頓挫し、暴動でも起きれば、すべての責任をこの豚に押し付けて切り捨てれば済む話だ。


ウィリアム男爵は、その浅薄な計算をすべて、痛いほどに理解していた。


(……フン、ブラスター侯爵め。私を『使い捨ての防波堤』程度にしか思っていないのだろう。私が住民を追い出し、私が手抜き工事の汚名を被り、私が過労で死ぬのを待っている)


男爵は、贅肉のついた顎をさすりながら、冷笑を浮かべた。ブラスター侯爵にとって自分は「もってこいの駒」かもしれないが、ウィリアムにはウィリアムの意地がある。


(ただで捨てられてやるほど、私はお人好しではないぞ。この鉄道が完成した時、最後に笑っているのが誰か、思い知らせてやる)


自分を蔑み利用する侯爵、監視の目を向けるエドガー、そして自分を呪う住民たち。四面楚歌の状況こそが、彼の強欲をさらに鋭く研ぎ澄ませていた。


(……ブラスター侯爵め。私を使い勝手のいい財布か、あるいは失敗した時の身代わりだと思っているのだろう)


かつては金さえあればすべてを支配できると信じていた。だが、鉄道という巨大な鉄の怪物を前にして、彼は初めて「力」に対する飢えを感じていた。


(私をただの『強欲な金貸し』だと侮っているなら、思い知らせてやる。この鉄道も、この命も、誰にも渡しはしない……!)


男爵の脂ぎった指が、刀の柄をさらに強く、白くなるほどに締め上げた。


屋敷の最奥、ひときわ豪勢な装飾が施された私室。重厚な扉が開くと、一人の男が静かに入室してきた。エドガーだ。


「……遅いぞ、エドガー。私の時間は、貴様の命より高いことを忘れたか?」


ウィリアム男爵は、その垂れ下がった顔の肉を揺らしながら、椅子に深くふんぞり返った。


(……相変わらず、虫唾の走る顔だ。侯爵の飼い犬が)


男爵は内心で毒づく。


このエドガーという男は、自分を監視し、事業が完成した瞬間に取り上げるために送り込まれた、ブラスター侯爵の「爪」なのだ。


「それで? 前回の工程表の修正、資材搬入の遅れ、それから北側の路線上にあるあの忌々しい巨岩の撤去案……すべて片付いたのだろうな?」


男爵は、意図的に過剰な仕事量を叩きつけた。


エドガーの有能だが、人間には限界がある。寝食を忘れなければ終わらぬ仕事を与え続ければ、いずれ心か体が壊れるはずだ。過労で倒れるか、絶望して自ら首を括るか。


エドガーを追い出すことが出来れば監視の目が緩む。そうすればブラスター侯爵への更なる備えが出来る。


「工程表の修正は完了しました。資材も予定通り、明朝には届きます。巨岩に関しては、爆破の代わりに工法を迂回させることで期間を二週間短縮しました」


淡々と答えるエドガーの顔色は、確かに悪い。目の下には濃い隈が刻まれ、その知性溢れる瞳にも、隠しきれない焦燥と疲労が滲んでいる。


(……効いている。確実に、こいつの寿命は削られている)


男爵は下卑た愉悦を感じながら、さらに畳み掛けようとした。しかし、エドガーが意外な言葉を口にした。


「……ウィリアム男爵。実は、旅の司祭様が屋敷を訪ねております。あなた様と、ぜひお会いして話をしたいと」


「旅の司祭だと?」


男爵の眉が動く。


(侯爵の新たな手先か? 宗教的な権威を使って私を牽制するつもりか?)


疑念が脳裏を掠める。だが、相手は「プーチャル教」の司祭だ。世界最大の宗教団体を敵に回すのは、現時点では得策ではない。たとえ地方の司祭一人であっても、邪険に扱えば後にどんな遺恨を残すか分からない。


「……なぜ司祭が、私に会いに来た?」


「お屋敷の従業員たちが、男爵様が最近手に入れられた『黒い刀』のことを、ひどく心配しておりまして。その噂を聞きつけた司祭様が、ぜひ直接お話しして心を鎮めたいと……」


「ほう………」


男爵は手元の刀を強く握りしめた。これこそが、自分を侯爵の恐怖から守り、全能感を与えてくれる唯一の友だ。手放すつもりなど、微塵もない。


(……だが、待てよ。利用価値はあるか)


男爵は口角を歪め、脂ぎった顔に歪な笑みを浮かべた。


「わかった、会ってやろう。……エドガー、その司祭をここに通せ。ただし――二人きりで、だ」






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