11話 不知火の落日と、覚醒する紅蓮
天を衝く黒煙が、不知火の清浄な空気を汚していく。
数刻前まで、そこには土の匂いと陽葵の笑い声があった。だが今、蓮の視界に映るのは、燃え盛る家々と、朱に染まった棚田の惨状だった。
「……逃がさないと言ったはずです、先生」
影森の声が、爆炎の爆ぜる音を切り裂いて響く。
彼の背後には、幕府の精鋭『鉄錆』の面々が、無機質な鉄の仮面を被り、機械的な統制で里の出口を封鎖していた。彼らは「隠密」というよりは「殲滅」に特化した集団であり、その刃には犠牲者への慈悲も、戦いの愉悦すらも介在しない。
蓮は、利き腕である右腕の震えを必死に抑えていた。
先ほどの奇襲爆発の際、身を挺して陽葵を庇った影響で、背中から肩にかけて深い裂傷を負っている。農夫の麻布がじわじわと血を吸い、重く肌に張り付く。
「陽葵……。長老と里の連中を連れて、裏の鍾乳洞へ逃げろ」
「嫌よ! あんた、そんな体で一人で戦うつもり!? 死にに来たようなもんじゃない!」
陽葵が叫び、蓮の装束を掴む。その手もまた、爆風の煤で黒く汚れていた。
蓮は、血の気の引いた顔で笑ってみせた。それは、かつての彼には決してできなかった、ひどく不器用で、ひどく優しい微笑だった。
「……案ずるな。……私は『死神』だ。死神が、己の縄張りで不覚を取ることはない」
「嘘つき! さっきの団子の約束、まだ半分も果たしてないわよ!」
「……だからだ。……その半分を果たすために、私はここでお前を守る」
蓮は陽葵の手をそっと解き、彼女を突き飛ばすようにして前へ出した。
それと同時に、影森の合図で『鉄錆』の兵たちが一斉に突き進んでくる。
蓮は、愛刀『氷雨』を低く構えた。
一閃。
空気を凍てつかせるような鋭い斬撃が走り、先頭の三人の首筋が、視認できぬ速さで断たれる。だが、敵は止まらない。一人が倒れれば二人がその骸を乗り越え、さらに厚い刃の壁となって蓮を包囲する。
「……無駄ですよ。あなたの剣は、もはや『個』の武勇に過ぎない。この鉄の軍勢を前に、たった一振りの刀で何ができる!」
影森の言葉と共に、四方から鎖鎌と十手が蓮を襲う。
蓮は、傷ついた体で紙一重の回避を続け、カウンターの一撃で確実に敵を屠っていく。だが、多勢に無勢。一人を斬れば、もう一人の刃が彼の脇腹を掠め、さらに一人を蹴り飛ばせば、背後から苦無が突き刺さる。
血が、雨のように棚田に降り注ぐ。
蓮の意識が、次第に混濁し始めていた。
(……ああ、これが私の望んでいた『死に場所』か)
不意に、そんな思いが頭をよぎる。
誰かを守り、戦いの中で果てる。忍びとして、これ以上に美しい最期はないのかもしれない。
だが、その思考は、背後から聞こえた「ある声」によって一瞬で否定された。
「……やめてえええええ!!」
陽葵の悲鳴。
里を脱出しようとしていた彼女の前に、影森が回り込んでいた。
影森の冷徹な刃が、陽葵の喉元に突きつけられる。
「……先生。あなたがどれだけ抵抗しようと、この娘が死ねば、あなたの負けだ。……さあ、刀を捨てろ。さもなくば、この美しい首を今ここで撥ねる」
蓮の動きが止まった。
周囲を取り囲む『鉄錆』たちが、一斉に彼に飛びかかる。蓮は抵抗せず、その全身に刃を受けながら、ただ陽葵を見つめていた。
「……逃げろ、陽葵……。私のことなど、いいから……っ」
蓮の口から、鮮血が溢れる。
地面に膝をつき、満身創痍でなお彼女を想う蓮の姿を見て、陽葵の中で「何か」が壊れた。
――許さない。
――私のために、この人を壊させたりしない。
――里を、仲間を、私たちの平穏を奪ったすべてを、私は……!
その瞬間、陽葵の全身から、陽炎のような紅い気気が立ち昇った。
それは望月衆に伝わる禁忌の秘術。己の寿命と精神を薪とし、体内にある火遁の原動力を一気に爆発させる命懸けの奥義――『紅蓮・覚醒』。
「なっ……!? この熱気は……!」
影森が驚愕し、思わず距離を取る。
陽葵の瞳が、血のような真紅に染まり、彼女が握るクナイが、超高熱によって白熱し始めた。
彼女は一歩、地を蹴った。
それはもはや人の動きではなかった。炎の塊と化した陽葵が、瞬時に蓮を取り囲んでいた『鉄錆』の軍勢を薙ぎ払う。
爆炎。
一振りごとに周囲の酸素が燃え尽き、敵の鎧が飴細工のように溶けていく。
「……蓮! 死なせない……絶対に、死なせないんだから!!」
絶叫と共に、陽葵は影森へと肉薄した。
影森もまた、必死に刀を合わせるが、あまりの熱量に鋼が耐えられず、数合も交わさぬうちに彼の愛刀は折れ飛んだ。
「……これが、望月の『真の血』の力か……!?」
恐怖に顔を歪める影森の胸元に、陽葵の白熱したクナイが突き立てられる。
凄まじい熱風が吹き荒れ、里を囲んでいた霧がすべて蒸発し、視界が真っ白に染まった。
静寂が戻ったとき、そこには一面の焦土が広がっていた。
襲撃者たちのほとんどは撤退するか、陽葵の放った猛炎に焼かれ、戦う力を失っていた。
陽葵は、力のすべてを使い果たし、その場に崩れ落ちた。
紅い瞳は元の琥珀色に戻っていたが、その顔色は紙のように白い。
「……はぁ、……はぁ、……れん……」
彼女は這うようにして、動かなくなった蓮の元へと向かった。
蓮は、全身から血を流し、息絶えたように横たわっている。
「……嫌よ、……置いていかないで。……約束、……まだ……」
陽葵が蓮の胸元に触れたとき、微かな、だが確かな鼓動が彼女の掌に伝わってきた。
蓮はゆっくりと、血に汚れた瞼を持ち上げた。
「……陽葵、か……」
「……馬鹿。……本当に、馬鹿なんだから……」
陽葵は泣きながら、蓮の体を抱きしめた。
里は焼かれ、多くのものを失った。幕府との戦いも、これで終わったわけではない。
だが、地獄のような戦場の中で、二人の絆は、もはや何者にも断ち切ることのできない、鋼よりも強く、炎よりも熱いものへと昇華していた。
不知火の落日は、終わりではない。
それは、二人が「本当の自由」を求めて立ち上がるための、黎明への序曲だった。
「……蓮、……生きて。……二人で、……どこまでも」
「……ああ。……お前の行くところが、……私の、生きる場所だ」
朝焼けの光が、焦土と化した里に差し込み始める。
二人の忍びは、傷ついた体を引きずりながら、新しい運命の一歩を踏み出そうとしていた。




