10話 不知火の朝、あるいは最期の平穏
不知火の里に、夜明けを告げる鳥の声が響いた。
薄い板張りの天井から漏れる朝陽が、部屋の中に浮遊する埃を白く照らし出している。昨夜の嵐のような情事の名残が、まだ肌にまとわりついているような錯覚を覚えながら、蓮はゆっくりと瞳を開いた。
腕の中には、規則正しい呼吸を刻む陽葵がいた。
戦場で見せる険しい表情は消え、そこにあるのはただの、どこにでもいるうら若き娘の寝顔だった。彼女の紅い髪が蓮の胸元に散らばり、かすかに薬草と、そして彼女自身の甘い香りが鼻をくすぐる。
蓮は動けなかった。もし今、わずかでも体を動かせば、この奇跡のような静寂が、薄氷のようにパリンと割れて消えてしまうのではないか――そんな、かつての「死神」にはおよそ似つかわしくない、臆病なまでの慈しみが彼の胸を支配していた。
(……この手で、何かを慈しむ日が来るとはな)
蓮は自らの右手を眺めた。
昨夜、陽葵の肌に触れた手だ。だが、その掌には無数のタコがあり、指先には敵の喉笛を掻き切った記憶が刻み込まれている。この手は、人を愛でるためではなく、壊すために研ぎ澄まされてきた。
不知火の長老・琥珀が突きつけた「右手の筋を断て」という言葉は、呪いのように蓮の脳裏にこびりついていた。彼は剣を捨てなかった。だが、それは戦いを望んでいるからではない。彼女を守るための「盾」を失うわけにはいかなかったからだ。
「……ん、……れん……?」
腕の中の陽葵が、微かに身じろぎをした。長い睫毛が揺れ、琥珀色の瞳が蓮を捉える。
寝起きの霞んだ視界の中で、彼女は蓮を見上げると、ふにゃりと、心底幸せそうに頬を緩めた。
「おはよう、蓮二さん。……あ、もう蓮二じゃないのよね」
「……ああ。……おはよう、陽葵」
名前を呼び合う。それだけのことが、これほどまでに胸を締め付けるものだとは知らなかった。
陽葵は蓮の腕の中でさらに身を寄せ、彼の胸板に顔を埋めた。
「ねぇ、本当に夢じゃないわよね? 私たち、今、誰にも追われてない。殺し合ってもいない。……こんなに静かな朝、生まれて初めてだわ」
「……不知火の結界は強固だ。少なくとも、しばらくは静かに暮らせるだろう」
「……ねぇ。約束、覚えてる? お団子のこと」
陽葵が顔を上げ、悪戯っぽく微笑んだ。その瞳には、かつて復讐の炎に焼かれていた影はない。
蓮は不器用に視線を逸らしながらも、短く「……ああ」と答えた。
「里に米粉があるか聞いてみる。……お前の気が済むまで、作らせてやろう」
「ふふ、楽しみ。……でも、あんたが丸めるのを手伝いなさいよ? 筆頭隠密の指先なら、きっと綺麗な真ん丸が作れるはずだわ」
そんな他愛もない会話。
それは、二人がこれまで削り捨ててきた「人間」としての時間の断片だった。
その日の午前、二人は里の人々に倣い、畑仕事を手伝うことになった。
漆黒の装束を脱ぎ捨て、麻の着物に袖を通した蓮は、まるで鞘を失った刀のように所在なげに見えた。それでも彼は、教えられるままに鋤を握り、地を耕した。土の重み、太陽の熱、吹き抜ける風の匂い。そのすべてが、殺戮の場にいた頃の感覚とは全く異なる。
「蓮! 見て、大きなカエルがいたわ!」
隣の畝で泥だらけになりながら、陽葵が明るい声を上げる。
かつて名門・望月の令嬢であったはずの彼女が、今は泥にまみれて笑っている。その姿は、どんな美しい装束に身を包んでいた時よりも、蓮の目には眩しく映った。
(……もし、最初からこうしていられたら)
不毛な仮定が、蓮の胸を掠める。
もし二人が忍びという宿命を背負わず、ただの農村の若者として出会っていたら。
そうすれば、多くの同胞を殺すことも、彼女を傷つけることも、自分の心が氷に閉ざされることもなかったのかもしれない。
だが、蓮はすぐにその思考を振り払った。
地獄を這いずり、殺し合いの果てに、ようやく辿り着いたからこそ、この泥の匂いが、彼女の笑顔が、耐えがたいほど愛おしいのだ。
昼時、陽葵が約束通り、里のわずかな配給で作ったお団子を運んできた。
形は不揃いで、味も今の江戸で流行っているものとは比べ物にならないほど素朴なものだったが、二人は棚田の縁に座り、肩を並べてそれを口にした。
「……甘い、わね」
陽葵がぽつりと呟いた。その声には、僅かに涙が混ざっていた。
甘い。それは、彼女がずっと求めていた、平穏の味だった。
「……ああ。……甘いな」
蓮もまた、噛みしめるように答えた。
しかし、そんな幸福の時間は、あまりにも脆い砂の城だった。
――ガァッ、ガァッ!!
空を、一羽の不吉な鴉が横切った。
里の鴉ではない。その足に結ばれた紅い紐――第4話で蓮が見た、あの「最高抹殺指令」の伝令鴉。
蓮の全身に、忍びとしての本能が、激しい警鐘を鳴らす。
「……っ、陽葵、伏せろ!!」
蓮が陽葵を突き飛ばした直後、平穏だった棚田の中心で凄まじい爆発が起きた。
土煙が舞い上がり、里の人々の悲鳴が響き渡る。
霧の帳を切り裂くようにして、崖の上から漆黒の影たちが次々と舞い降りてきた。
「……不知火の結界が、破られた……!?」
陽葵が目を見開く。伝説の里が、これほど容易く蹂躙されるはずがない。
だが、現れたのは、これまでの追っ手とは一線を画す「本隊」だった。幕府隠密・黒鴉、そして将軍直属の精鋭部隊『鉄錆』。
その最前線に、あの男が立っていた。
「……だから言ったでしょう、九条先生。逃げ場など、この国のどこにもないと」
影森が、蔑むような笑みを浮かべてそこにいた。
彼の隣には、一人の里の若者が、震えながら平伏している。その手には、金貨の入った袋。
裏切りだ。
どんな強固な結界も、内部からの手引きがあれば紙同然になる。
「……影森。里の者まで巻き込むつもりか」
蓮は、地べたに置いていた鍬を捨て、再び『氷雨』を抜き放った。
農夫の着物という不釣り合いな格好でありながら、彼から放たれる殺気は、不知火の霧を瞬時に凍てつかせるほどに鋭く、冷たい。
「何を今更。あなたのせいで、この里は『反逆者の隠れ蓑』になった。連座の罪、全員死んでもらわねば困るのです」
影森が手を挙げると、百人近い隠密たちが、一斉に武器を構えた。
陽葵もまた、泥にまみれた体を起こし、クナイを手に蓮の背中へ回った。
「……ねぇ、蓮。団子の味、忘れちゃいそうね」
「……思い出させてやる。全員、ここで処理した後でな」
「約束よ。……私、今が一番、生きたいって思ってるわ」
二人の瞳には、もはや迷いはなかった。
守りたいものがあるから、強くなる。
冷徹な忍びの論理を捨てた二人が、今、初めて「愛する者のため」だけに、その刃を振るう。
「……来い、影森。私の最後の教えを……この身をもって刻んでやろう」
爆炎と悲鳴の中、宿命という名の最期の幕が上がる。
不知火の里を真っ赤に染めるのは、夕焼けか、それとも――。




