放課後の時間
静麗学園高等部の職員室。
豊島麗奈は自分用のデスクに腰を下ろすと、ふぅっと大きく息を吐いた。
初めてクラスを受け持つ重圧、無事に初日を乗り越えられた安堵。それぞれが胸の内でせめぎあい、渦巻く。
緊張の糸が解けた麗奈は一日を思い返しながら、ただ黙って天井を見つめる。
目まぐるしい一日が頭の中で何度も繰り返されて、疲れているのに休まらない。
「豊島先生、お疲れ様です」
透き通る声に導かれて視線を動かすと、
同僚で、同期の六条紗來が知的な笑みを湛え、立っていた。
ハーフアップに整えられた滑らかな黒髪。
明るいグレーのスーツにはシワひとつない。
「あぁ、お疲れ様です」
「よいしょ」と紗來は、麗奈の隣のデスクに座った。
「だいぶ、お疲れですね」
「一日緊張しっぱなしで」
くるくると肩を回すと、肩甲骨がよく鳴る。
ですよねと紗來も肩を回し始め、二人仲良く身体をほぐす。
「D組はどうでした?うちは男子が色めき立っちゃって」
「B組は美人な先生に大喜びですか?」
「はぁ、慕ってくれる分には構わないですけどね」と紗來は、苦笑い。
「うちはみんないい子そうで、安心しましたよ。自己紹介の最中に緊張した子に声をかける子がいて、クラスを良い雰囲気にしてくれてたんです」
「こんな言い方をするとあれですけど、そういう子たちが中心になって、クラスをまとめてくれると私たちは楽ですよね」
「そうですね」
「声をかけてた妙見と衣通、見た目が派手で。妙見なんて、いくつピアスしてるか数えちゃいましたよ」
「うちの学校はその辺、自由ですからね」
「自由に伴う責任をちゃんと伝えれるといいんですけど……」
次の瞬間、バシッと紗來に喝を入れられた。背中にじんわり残る熱が弱虫を追い出してくれる。
「お互い、頑張りましょうね」と言って、紗來は小さな包みを差し出した。
「ありがとうございます」
貰った包みをそっと解く。
中身は丸くて白いチョコレート。
そっと口に含むと広がるクリーミーな甘さ。
頑張った一日の小さなご褒美に、心が少し軽くなる。
「ふふっ、疲れたときには甘いものです!」
ウィンクを残して紗來はコーヒーを取りに給湯室へ。
無自覚にウィンクなんてしちゃうから、生徒たちが騒ぐんだろうなと、表情を変えずに書類に目を落とす。
この仕事を片付けば、長かった一日が終わる。
溜まったものを吐き出すのは、もう少し暗くなってからでいいだろう。
◇◇◇
すっかり日が落ちた頃、麗奈と紗來は酎ハイの缶を小さく掲げ、景気よく乾杯を交わす。
「はぁ〜、最っ高ぉ」
はじける炭酸の喉越し。
檸檬の爽快なキレ。
麗奈の一日の疲れが、いっぺんに吹き飛んでいく。
「仕事終わりの一杯は、至福の一杯」と、紗來もお酒片手に悦に浸っていた。
その隣で麗奈は、紗來特製のおつまみをつつく。
「このカプレーゼ、美味しい」
「そうでしょ?」
ゴルゴンゾーラをひと噛りしつつ、紗來はあっという間に350ml缶を空にする。
階は違うが、ふたりは同じマンションに住み、互いの部屋を行き来しながら、よく一緒の時間を過ごしていた。
今日は『新学期初日お疲れ様会』という名目で、麗奈の家で宅飲み。
「クラス受け持つなんて、未だに実感湧かないわ」
「それは私も同じ」
「授業を受け持つのとは全然違う。生徒にも保護者にも気を使うしねぇ」
教師になって、3年目。変化する立場や責任。新学期が憂鬱なのは何も生徒だけじゃない。
二缶目のハイボールはほろ苦くて、少し酸っぱい。
「でも今日は……忘れて飲む!」
「そうね。明日から頑張るために……」
ふたりは揃って「乾杯」と、もう缶をぶつけ合う。
「ねぇ紗來のクラスの女の子の反応はどうだったの?」
「女の子たちは真面目な子が多い印象。固いというか、どこか冷めてるというか?男の子も派手な子はいないから問題とかは……出てくるにしてもまだ先かなぁ」
「麗奈の方は?」
1年D組は、どんなクラスだろう。
少し生徒たちの自己紹介を思い出してみる。
特に目を引いたのは妙見と衣通だ。外見は派手だが、気遣いができる。
白金と財田は、男女問わず人気だった。
二本松や瀬戸、豊雛もしっかりと印象に残っている。
「中等部の頃からよく噂に上がるような人気者が多め」
「それって、やっぱりラッキーじゃない。さっきも言ったけど、そういう子たちがクラスをまとめてくれたら、ほんと楽」
いいなと言いながら、紗來のお酒が進む。
「父が校長に何か言ったのかも……」
「理事長が?」
「分からない……けど、できすぎな気がして……」
麗奈の父は静麗学園の理事長をしている。
母とは離婚。豊島は母の旧姓だ。
理事長の娘だという知っているのは、高等部の校長と教頭、そして紗來だ。
麗奈はどうしても母校に恩返しがしたくて、静麗で働くことを選んだが、コネで入ったと思われたくなくて、ほかの同僚や生徒には理事長の娘という立場は内緒にしている。
「でも、いい子たちだと思えたんでしょ?」
「まぁ……」
「じゃあいいじゃない」
「あの子たち、キラキラした目で私のことを聞いてくるの。先生の好きなもはとか」
「可愛いじゃないの」
「可愛いすぎて、生徒たちにキュンってした」
「ふふっ。なら問題ない、ない」
顔が熱いのはお酒のせいなのか、羞恥心なのかもうよく分からない。
麗奈はため息混じりに、真っ赤なカプレーゼのトマトを頬張っていた。
生徒たちにメロメロな同僚を酒の肴に、「かわいい」と呟き、紗來は酒缶を揺らす。
「からかわないで……」
「はいはい」
こうして、ふたりが担任になった初めての日の夜は静かに更けていく。
◇◇◇
先生たちが語り合う夜、違う場所で結真は夜風に吹かれながらスマホを握りしめていた。
ブルーライトに照らされ、ぼんやりと夜闇に浮かび上がるシルエット。
『ひーちゃん。今日、家行ってもいい?』
スマホ片手にアイスを齧る。
みんなで騒いだあとの物悲しい宵の空。
ひとりぼっちで輝く一番星。
こんな日の夜はひとりになりたくない。
震えるスマホ。メッセージは一言、『いいよ』だった。
結真はアイスの最後の一口を頬張って、歩き出す。
「こんな時間にごめんね」
「いいって!上がって、上がって!」
明瞭な声が響く。
屈託のない笑顔が結真を出迎えた。
彼女は松丸姫翠。
一つ上の先輩だけど、先輩って感じじゃない。
年上の友人だ。
「いつもは結真ん家なのに珍しいじゃん」
ストロベリーブロンドの豊かな髪。
モコモコの部屋着からすらっと伸びる長い手足。
線が細くて、何を食べて生きてるのか不思議に思うときがあった。
「うん……。さっきまで友達とご飯食べてたんだけど、解散したらちょっと寂しくなっちゃって。家、帰りたくないなーって」
「そっか」
姫翠はそれ以上、何も聞いてこなかった。
そうやって、受け入れてくれる優しさがありがたい。
「映画でも観る?」
「うん」
「じゃあ、私オススメのとびっきり面白いのにしよ」
「うん」
「結真のお腹よじれちゃうかもよ?」
「うん」
「死ぬほど笑って、明日は一緒に学校行こ」と、姫翠は結真の頭をわしゃわしゃと撫で回してくれた。
「ありがとう……」
姫翠の明朗さに、結真はカタルシスを感じる。
空にポツンとあった一番星が見当たらない。
────だって、もう夜空には幾つもの星が瞬いていたから。
読んでくれてありがとうございます。




