高校生の始まり、お姉さんの悪戯
建国記念日かぁ
買ったばかりの傷一つない腕時計の針は7時半を指していた。
せっかく早起きしたのに、もうこんな時間。朝から千種と盛り上がってしまったせいだ。
そっと息を吐いて肺を空にする。
そして白く透明な空気を吸い込むと、心臓がようやく落ち着きを取り戻す。
取り込んだ春の空気が身体を巡り、足取りも軽くなる。
今日はこれから入学式がある。
結真には使う校舎が変わるくらいだが、新しく入学してくる子たちは違う。
受験を乗り越えて勝ち取ったビッグイベントだ。期待と不安を胸にこの静麗学園高校にやってくる。
結真は刺激的な学園生活に飢えていた。だからか新たな出会いに胸が高鳴りが抑えられないでいた。
(面白い子がいるといいな)
閑静な住宅街を抜ける緩やかな坂道。その途中にあるコンビニ。
そこが中学からの親友との待ち合わせ場所だ。
初登校のワクワク感を早く分かち合いたくて、自然と早足になる。
コンビニの前で綿菓子のような柔らかな黒髪が春風に揺れている。
空を眺めながら佇む小柄な美少女に向かって、結真は思いっきり手を振った。
「うさぎちゃん、おはよー!」
うさぎちゃんこと財田兎萌は、結真に気づくとにこやかに手を振り返す。
「ゆまちゃーん!」
こうして会うのは春休みぶりだ。
久々の再会に、ふたりは飛び跳ねてハイタッチを交わした。
「イェーイ。セーラー服、似合ってるね」
「ふふ。ゆまちゃんのブレザーも可愛いよ」
静麗の女子制服はブレザーとセーラーのどちらかを選択できる。どちらも可愛くて地元では人気があり、制服で静麗を選んだなんて話もよく耳にする。
お互いの制服姿を褒め合うと、ふたりは手を繋いでコンビニの中に入る。
「ねぇ。これめっちゃ美味しそう」
「ホントだ。帰りに買っていこうかな」
コンビニに立ち寄ると、つい新商品や季節限定の文字に目が吸い寄せられてしまう。
彩り豊かなお菓子をずっと味わってみたいが、あいにくとそんな暇はない。
「こんなことしてる場合じゃないよね。飲み物、買ってくるね」
「うん」
結真は商品棚からお気に入りのフルーツティーを手に取り、レジへと並んだ。
「袋はいりますか?」
「いらないです。会計はスマホで」
いつもいる外国人の美人な店員さんは笑顔で、「いつもありがとうございます。いってらっしゃーい」と言って、飲み物を渡してくれた。
「ありがとうございます。行ってきます!」
店員さんの温かい言葉を背中に受け、待ってくれていた兎萌の手をぎゅっと掴む。
兎萌はスマホをそっとしまい、その手を受け入れた。
「お待たせー。それじゃあ、行こうか」
「うん」
いつもなら静麗の生徒たちのざわめきで溢れているのに今日は雰囲気が違う。
登校しているのは新一年生だけ。誰もが着慣れない制服に身を包み、自分の気持ちと向き合うのに忙しくて、余裕がない。表情を固くして、視線をさまよわせたりしている。
「ねぇねぇ」
「うん?」
「学校にもピアスしてくことにしたんだ」
「あーコレ?うん。校則違反じゃないし、いつもつけてるものだからいいかなって。どうかな?」
「結真ちゃんのピアス姿、かっこいいから私、結構好きだよ」
しているピアスはどれもお気に入りだから、褒めてもらえると素直に嬉しい。
「えへへ。ありがとう」と言って、結真は少し下を向いて繋いだ兎萌の手を何度も握り込んだ。
兎萌の瞳に映る結真の横顔は、通学路を彩るソメイヨシノと同じ色をしていた。
丘の上に建つ校舎をぼんやり見つめ、はしゃいでいる心臓の鼓動に耳を傾ける。兎萌に告白する男子たちの気持ちが少しわかってしまった。
(まったく。うさぎちゃんは罪な子だよ)
そのあとは、ふたりは学校に着くまでひたすらおしゃべりに花を咲かせた。
春休みのこと。
染め直した髪色のこと。
アクセサリーやファッションのこと。
時間は一瞬で過ぎ、もう校門の前だ。玄関前にはクラス分けが貼られた大きな掲示板が置かれていた。
「今年もクラス一緒かよ。よろしくな」
「マジかよ!またかよ」
「はぁ……私、知り合いいないんだけど」
「元気出せ。遊びいくし」
「うん」
そこに群がる同級生たちの一喜一憂する声がする。
「うちらもクラス一緒がいいね」
そう言って、笑いかけると兎萌は生まれたての子鹿のように震え出す。
「違うクラスだったら、どうしよ〜」と顔を青くして、兎萌は結真の腕にしがみついてきた。
「よしよし。大丈夫だから」
怯える小動物と化した兎萌。宥めようと頭をなでても不安そうに、目を潤ませていた。
兎萌の不安が伝染してか、結真も少し落ち着かない気持ちになる。クラスが別れて寂しいのは、何も兎萌だけじゃない。
「クラスが別々でも会いにきてくれる?」
「うんうん。行ってあげるからね。うさぎちゃんも会いに来るんだぞ?」
「絶対行くもん……」
それはそうと、さっきから兎萌が必死に腕にしがみついてくるせいで、ずっと水風船のように柔らかい立派なモノの温もりが伝わってくる。
朝の光景が甦り、結真の喉が控えめに鳴る。幸い掲示板前の混雑に掻き消され、兎萌に悟られることはなかった。
先客たちは仲のいい者同士、あれこれ喋っていてなかなかどいてくれない。
肩や背中に人がぶつかり、前に進むのも一苦労。結真は少しイライラしてきていた。
「ちょっと、通してくんない?見えないんだけど」
波紋が広がるように喧騒は一旦落ちつき、ふたりに視線が集まる。結真が不機嫌そうに黙っていると、やがて潮が引くように人だかりが割れていく。
やっとたどり着いたクラス分け。
自分たちの名前を探して、目を凝らす。
半分くらい過ぎたところで見つけた『 妙見結真』と『財田兎萌』の名。
兎萌と視線を交わすと、満面の笑みで嬉しそうに飛びついてきた。
◇◇◇
『1-D』と書かれた教室のドアをそっと開けると、もうクラスメイトたちがだべっている。
これからお世話になるこの場所に向けて、「おはよう」と告げて、結真は堂々と中に入った。
「おはよう」
「おはよー」
「よう」
気づいた子たちから軽い反応が返ってくる。
関係性の深浅はあれ、大概顔見知りだった。
(中高一貫だもん。そうなるよね)
黒板に書かれている自分の席と名前を確認し、少し肩を落としながらリュックを置く。
淡い期待は露と消え、ひとりしばらく黄昏ていると、知っている子たちが結真のもとに寄ってくれる。
中学最後のクラスとは違う顔ぶれと言葉を交わし、やっと新学期を実感することができた。
ちらりと横を窺うと兎萌も清楚系な子たちに囲まれており、そのエリアだけ他より少し空気が澄んでいる気がする。
「あんた、そんな真剣に何見てんの?」
クラスの聖域をじっと観察していると結真の知らぬ間に、もうひとりの親友が変なもの見るような目をして立っていた。
「おっ、璃羅じゃん。おはー」
「おは。で、何見てたの?」
「んー、聖域」
「また訳わからんことを。それにしても、ふたりは相変わらず人気だねぇ」
「いやいや、元中学女子陸上部のエースで高校陸上部期待の新人の璃羅さんには敵いませんて」
「何それ、絶対からからかってるでしょ」
「そんなことないよ?」
「そういえば、噂になっていたよ。妙見さんが玄関前でめっちゃキレてたって。すごい迫力だったーってさ」
「はぁ?何それ。知らなーい」
「まぁ、いいけど」
なんの事やらと肩をすくめる結真とため息をつく璃羅。
「璃羅ちゃん、おはよう!なんの話ー?」
トテトテと小走りで駆け寄ってきた兎萌は、璃羅の胸に顔を擦りつける。
「ちょっと……危ないって!」と言いつつ、兎萌を受け止めた璃羅の口元が微かに緩んでいた。
一緒になって結真も抱きつき、三人仲良く団子状態に。
「結真まで……もう」
「なんか……すごくいい匂いする」
「わかる」
「制汗スプレーだよ。朝、ランニングしたから」
「……シトラスの匂い」
「ちょい、ストップ!恥ずいから、あんまり嗅がないで!」
匂いを嗅がれ、悲鳴を上げたので結真と兎萌は、渋々璃羅から離れた。
「あれ、首のところ……」
急に兎萌が首元を覗き込んできて、そっと皮膚の薄いところをなぞる。
指が触れる感触に結真は、思わず身震いをした。
「兎萌、どうした?」
「ここ、何か赤くなってるよ」
結真は反射的に頸部をおさえた。
「こ、これは……ちょっと」
心臓が跳ね、耳が熱い。慌てて取り繕おうとしても上手く言葉が出てこない。
兎萌は不思議そうに首を傾け、璃羅は少し顔を赤らめ、怪訝な表情を浮かべていた。
「いや……ちょっと、シャツで擦れたのかな……まだ、新品のやつだから」
結真は内心で、盛大にやらかしたと顔を覆いたくなっていた。
「あはは……ちょっとお手洗、行ってくるね!」
そう乾いた笑いを残して結真は女子トイレにかけ込んだ。
「はぁ……」
誰もいないトイレの鏡の前で、項垂れる結真。
鏡に映る自分の首元にはっきりと残る痕。
昨日の夜か、今日の朝のか。
「いち、に、さん……」
ネクタイを緩めてみると、胸元や鎖骨の辺りにも目立つのがある。
「千種ちゃん……これどうすんだよ」
頭を抱えていると、なかなか戻って来ない結真を心配して璃羅が様子を見にきてくれていた。
「結真、大丈夫?」
「あっ、うん。大丈夫ダヨ?」
「本当に?」
何とか平静を装ってみたものの、どうしても声が上ずってしまう。
「さっきのって……」
「多分、昨日の夜か、朝につけられた……」
「結真さん?」
「わかってる!やらかしたのは、わかってるからお願い……言わないで!」
「はぁ……まったく」
璃羅の深いため息に、また顔が熱くなっていき、羞恥でどうにかなりそうになる。
「とりあえず、これでも貼っときな」と、璃羅は絆創膏を手渡した。
結真が小さく、「ありがとう」と呟くと、自慢の親友は、何も言わずに教室へと先に去っていく。
首のところに璃羅からもらった絆創膏を貼り、もう一度鏡を覗き込んだ。
そっと隠れた痣の部分をなぞると胸の奥が微かに疼く。未だ冷めやらぬ熱が内側をゆっくりと這い回っているかのように。
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