それぞれの朝
部長のかけ声に合わせて、400mトラックをゆっくり時間をかけて周回する。
先輩の声が酷く遠い。
璃羅の頭の中をうめ尽くす『親友』の存在。
結真の家に泊まった昨日の夜。
朝早く、目に飛び込んできた結真の寝顔。
ぴったりと閉じた目。
たまに揺れる手入れされた長い睫毛。
規則正しい吐息が洩れる瑞々しい桃色の唇。
何度振り払おうとしても映像が頭に焼きついて離れてくれない。
(泊まったのだって、結真の寝顔を見るのだって初めてじゃないのに)
それどころか無限に湧き上がる雑念。
朝練にもまったく身が入っていない。
(ア゛ァ゛ア゛!!!!)
心の中で上げた、轢かれた猿みたいな声は女子高生が出していいものではなかった。
(こんなの、あたしじゃない!!)
両手で頬を張り、自分自身に喝を入れる。
ペシッと、汗の混じる音が響く。
切り替え、足を動かす。
「おっ、なんだ?二本松、気合い入ってんじゃん」
「あっ、いや……これは」
「照れんなよ!」
「あっ、ちょっと。先輩……!?」
背中に衝撃が走り、もつれる足。
脳裏をよぎる怪我のリスク。
よろけながら、何とか体勢を立て直してフォームを維持する。
肝を冷やした璃羅は、ムスッと犯人を睨んだ。
「危ないじゃないですか……」
「いやぁ、すまん」
頭に手をやり、からから笑って誤魔化す先輩。 その顔に反省の色はない。
「ホントに悪いと思ってます……?」
「思ってるってぇ」
「怪我したらどうするんですか……」と言って、璃羅はジト目を向けた。
「まぁ、何ともなかったということ」
調子のいいことを言って先輩はスピードを上げる。そのまま前の方に走り去っていった。
「どうせ朝練が終わるころには忘れてるな、あの人」
三十分ほど流して軽く息が上がってきたところで号令がかかる。
朝練終了の合図だ。
跳ねる心臓の鼓動を、息を整える。
「しっかり、柔軟して上がれ」
コーチの声に従って、トラックの端に座り込む。
汗ばんだもも裏を伸ばすたび、ユニフォームの隙間から覗く日焼けの境目。
璃羅のイタミ知らずな小麦色の肌を滑る汗の雫。
立ち上がり、足を開いて膝に手を置き、身体を沈める。右のふくらはぎからアキレス腱にかけて、グッと伸びるのがわかる。
そのまま六十秒キープ。そして、逆足を伸ばす。
「一年って、そろそろオリエンテーションじゃない」
璃羅の隣であがぐらをかいて、腕を交差させる先輩。
「あぁ……。なんかありましたね。そんなの」
「アンタ、何でそんな淡白なの」
「いやぁ、高校生活に馴染むので精一杯っていうか」
それどころじゃなかったんだよなぁと、しみじみ。
記憶の片隅に、そんな話があったくらいの感覚だった。
「はぁ。シャワー浴びてきます」
ストレッチを早々に切り上げ、立ち上がった璃羅は汗の染み込んだタオルを掴んだ。
「部活棟のシャワーは先輩たちが使ってるぞ?」
「部活棟じゃないんで。お先です」
先輩を置き去りにして、自分の備品を持って部室へ。
部室にいた先輩たちにも、「お疲れ様です」と挨拶し、自分のエナメルバッグにスパイクや水筒を詰め込む。
バッグを肩にかけ、もう一度先輩たちに頭を下げてから部室を後にする。
みんなと駄弁る気にはなれなかったし、長居すると片付けや余計な作業が降ってくる。
ただでさえ悶々としているのに、璃羅はこれ以上神経をすり減らすのは御免だった。
シャワー室が四箇所あって、陸上部がよく利用する部活棟。
第一体育館と第二体育館の中。
璃羅が向かっている屋内プールのシャワー室。
屋内プールは水泳部くらいしか使わないから、ここのシャワーはいつも空いている。
ここなら先輩たちにも気兼ねしなくていい。璃羅が見つけた穴場だ。
しんと静まり返ったシャワー室。
今日も誰もいない。
電気をつけると、蛍光灯が微かに明滅して明かりが灯る。
広々とした脱衣スペースを独り占めして、贅沢にロッカーも二つ使う。
荷物をロッカーに詰め、璃羅はバッグの中から大きめのタオルを取り出した。
汗を吸ったユニフォームがすのこの上にぺたりと落ちた。
ちなみに最近結真に教わったスキンケアまでしていたせいで、しっかりとHRに遅刻した。
◇◇◇
ふと、兎萌は竹箒に跨って遊ぶ手を止めた。
風を切り、空を滑るように飛ぶ燕。
二羽の番が枯れ草を咥え、せわしなく民家の軒下と外の世界を往復している。
「今年も巣作りしてる」
あちらこちらに散りばめられた『春』をみつけると自然と気分が上がる。
桜が散っても、春はまだ過ぎてはいない。
ケーキ屋を営む財田家の朝は早い。
兎萌は薄明に目を細めながら、店先を掃き清める。
朗らかな両親に家業の手伝いを強制されたことはないが、いつの頃からか兎萌の日課になっていた。
微かに漂ってくる甘い匂い。
父と母は調理場に立ち、すでに開店準備を始めている。
どんなに忙しい朝も一緒にご飯を食べてくれる。
そんな両親が大切に守るお店が、兎萌も大好きだった。
「お父さん。表、綺麗にしたよ」
「いつもありがとう。あとは大丈夫だから、そろそろ学校に行く支度しておいで」
「うん」
母が用意してくれたお弁当を丁寧に包み、花柄のお弁当袋へ。紐をきつく締め、机においた。
椅子の背にかけてあったブレザーを掴む。
「お母さん、お弁当ありがとう」
クリームを泡立てながら、小さく手を振る母の姿。
「あっ栗山さん、椎名さん。おはようー」
「おはよう」
「兎萌ちゃん、おはー」
「ともちゃん、今から学校?」
「そうだよ」
「気をつけて、いってらっしゃい」
「いってらっしゃーい」
「いってきます」
お店で働く従業員のふたりに見送られ、玄関から飛び出した。
キュッとCONVERSEのハイカットスニーカーの靴底が鳴る。
勢い余って、もつれる足。
「ともちゃん、大丈夫!?」
兎萌は盛大に転び、門扉に激突。
すぐに駆けつけた栗山さんに助け起こされた。
「怪我はない?」
「いてて……栗山さん、ありがと。新しい靴で走ったら、滑っちゃった」
「もう、ダメだよ。気をつけなきゃ」
「ごめんなさい」
赤くなったおでこと穴の空いたタイツ。
膝が少し擦れて、血が滲んでいる。
「あちゃー。タイツ、脱いで。今、消毒と絆創膏持ってくるから」
「いいよ。学校遅れちゃうし」
「何言ってるの。だーめ。待ってなさい」
「……はぁい」と言って、兎萌は一段上がった玄関に腰を下ろした。
兎萌が大人しく座るのを見届けた栗山さんは、お店の方から中へと入って行く。
今日ばかりは自分の運動神経の悪さが恨めしい。
「いつものローファーにしとけばよかったかな」
顔を顰め、破れたタイツに手をかける。
そこで兎萌は重大なことに気がついた。
「私……。パンツ、履いてない……」
タイツをスっと上げ直す。
そして靴を脱ぎ捨て、一目散に階段を駆け上がっていった。
バタンッと二階で響く、ドアの閉まる大きな音。
このあと、顔を真っ赤にして二階から下りてきた兎萌は、栗山さんに膝に絆創膏を貼ってもらった。
出かけのトラブルのせいで、HRには間に合わなかった。




