楽園の夕焼け
意識が浮上し、朱音は薄く瞼を上げると暗闇を見た。
目覚ましは鳴っていない。枕元のステルスフォンで時刻を確かめると、十一時三十六分。二時間ばかり眠ったようだ。
(気になってたからか……)
まだ半分夢見心地で、朱音は寝返りを打つ。再びまどろみかけたら、待て、と心がとどめた。
(後二十四分、残っている)
朱音は、目を見開いた。衝動のまま跳ね起きてVR眼鏡を掴み取る。もどかしい思いで起動メッセージや何やらを見守った。
アカネは、残り二十一分でログインを果たした。
辺り一面、胸の詰まるような色に包まれている。
震える手で、夕暮れに青が深まっているどこでもフォンを引っ張り出した。
(居た――)
その名を瞳に映した途端、プレートが鳴動する。
「ごめん――っ」
〔寝過ごしたなぁー?〕
半ば重なった声が、ホッとしたように笑った。〔オレ、駅前に居る〕
耳にした時には走り出していた。約束が果たせる――まだ二十分ある。
〔電車からだと、すっげぇ綺麗なんじゃないかと思うんだ〕
「うん――うんっ」
すぐに耳が痛んできていたのに、風の冷たさなんてまるで判らなかった。
北西に在る桜井高校から南東に在る桜駅までは、徒歩だと三十分前後かかる。足じゃ駄目だと気づいて焦る。
貸自転車に跨って猛然とペダルをこいだ。跳び箱を抱えて走った時より女を捨てていそうだったが、気にしていられない。
ブレザーの内ポケットから、切符買っとく、と言う声が聞こえた。
何処もかしこも夕日の色に満ちている。
もはや約束したからではなく、ただ、たまらなく会いたかった。会いたくて、夢中で走った。
残り十六分のところで駅舎に駆け込む。
息も髪も乱れていたけれど、改札の手前で桐臣がにかっと笑うのを見たら、どうでも良くなった。
「アカネ、こっちでまで寝起きみたいになってるぜ。何処居たの」
自分の切符を改札に通しながら、この前の夜と同じ恰好の桐臣は可笑しそうに言う。
ノールックでもう一枚をパスしてきたので受け取って、片手で髪をかき上げつつ、アカネは息をついた。
「桜井前」
「ぶは」
桐臣は、こめかみの辺りを指先で掻いた。「あー、ごめん。中間地点の公園辺りで落ち合えば良かったな」
「や、電車から夕焼け見たかったもの」
ホームに上がると、二両編成の電車が金色に染まっていた。発車のベルが鳴って飛び乗る。他の乗客が居ない。貸し切りだ。
二人で長い座席に腰かけると、大きな窓が真正面にあって映画を観るみたいだ。ドアが閉まり、滑らかに発車する。
トンネルに入って暗がりになり、はぁ、とアカネと桐臣は同時に吐息を漏らした。両者とも、間に合った、という感情が滲んでいる。
「もーぅ、絶対大丈夫じゃない約束なんてするもんじゃないね。どうなることかと思った」
「いやぁ、二十日もあれば大丈夫だと思ってたよ」
「まったく、こうも会わないとは予想外だった」
アカネは座面に両手をついて肩をすくめる。桐臣は軽く足の先を組んだ。
「今日こそ絶対行けると思ってたのに、朝っぱらから姉さんが結婚するとか言い出して、相手をいきなり挨拶に呼びつけたりしたもんだからバタバタして……使い走りさせられ、動転してる親にオレまで同席させられ……酷い目に遭った」
海外エリアで鼻の下を伸ばしていたのは、結婚するような年齢の人だったらしい。
桐臣は、呆れたような顔で続けた。
「そういう挨拶って、普通は双方が事前に日程を調整したりするもんみたいだぜ」
「うはは、うん、そうだろね」
「古いゲームの腕前以外は色々酷いあの姉さんを、貰ってくれる人が現れて良かったけどさぁ……なにも今日にぶつけてくることないだろうに……っ」
そう桐臣が吼えたら、トンネルが終わった。
薄暗かった車内へ、一気に暖かい光が差し込む。昼の光では、成し得ない色。アカネと桐臣もくるみこまれて、一緒に染まる。
窓の外には、橙色のベールを被せた海の紺碧が輝いていた。
「うわぁ――予想的中だねぇ」
アカネは感嘆の溜め息をこぼした。
窓外を流れゆく空は、地平線の付近だけ薄白く、少しの羊雲をいだいた茜色。
ぽつりと桐臣が呟いた。
「アカネの名前って、あの空の色なの……?」
「あー、違うの」
自嘲気味にアカネは応じた。「わたしの名前は、あんまり意味が無い。朱色に、音だもの」
「……いいんじゃない?」
少し照れたように桐臣は目線を落とした。「素敵だ、朱色も。あの空にもあるよ」
この前の風邪に続いて、照れもうつった気がした。アカネは頬が熱いのを自覚しつつ、そう? と流れる風景に朱を探す。
金赤や蜜柑色、山吹に緋色、朱鷺色。
「言われてみれば、あの辺の、羊が内出血してるような部分は、朱色入ってるね」
「こんなイイ景色を見て〝羊の内出血〟なんて表現を持ってくるアカネって……」
「ふへへ。わたしの今回の現国テスト、結果を知りたくない出来栄えさ」
最後の瞬間が近づいていた。いつの間にか、後、二分。
残り時間に気づいたのか、顔をほころばせていた桐臣が表情を消した。
綺麗なラインの横顔が、窓へと目を向けたまま、アカネ、と囁くような小声で呼んでくる。
「オレ、正式版、買うつもりだけど……」
「――そか……」
アカネは、心を込めて告げた。「β版、オミのお蔭でホント楽しかった。たくさん、ありがとう」
「ちょっと待って」
桐臣は、時折恐ろしく察しがいい。焦燥気味にこちらを向いた。「これでやめるの」
「今は、そう思ってる」
なんで、と声に出さずに唇が動くのを見て、アカネは胸の内からコバルトブルーのプレートを出した。
友達の名前に目を落とす。目に、焼き付ける。
「この後続けるとしても、ずっとなんて無理でしょ……? わたし、みんなが笑って、またね、って言ってる顔しか見たくない」
「それは――ワカさんのこと言ってる?」
桐臣が腕を掴んできた。口早に言い募る。「オレだってあれから怖くなった。でも、だったらヴァーチャルだけにしなきゃいいじゃん。オレ、アカネにずっと聞きたかっ――」
アカネがその楽園で最後に見たのは、とても真剣な、桐臣の澄んだ瞳だった。
【『SeiShun.β』側の理由で、アクセスが切断されました。】
無機的な文が、入れ代わりに出ていた。
電源を切り、ゆるゆると眼鏡を外す。
日付が変わった暗い天井を、朱音はぼんやりと双眸に映した。
(そういえば、オミは前から何か、言いかけてたなぁ……)
いつも〝あのさ〟で始めていたから、きっとろくでもない事なんだろうけれど。
可笑しくなって、闇の中で小さく笑い声をあげてしまう。
可笑しい筈なのに、朱音の目尻からは涙が幾筋かこぼれ落ちていった。
物理と古文のテストは赤点だった。
追試を受けたことが何故か桐間先輩に知られ、朱音は冬休みに入るまで〝赤頭巾ちゃん〟という、実に微妙な名前で呼ばれた。
年が明け、川辺先輩は無事に志望大学にも合格し、卒業していった。
在校生代表で送辞を読み上げた桐間先輩がきらっきらの顔つきだったので、生徒会一年生組はステルスフォンチャットで【限定一名に送辞するな、反省しろ!】、【来年の卒業式には〝威風堂々〟じゃなく〝葬送行進曲〟流してやろうか】、【振られるまで何日か賭けねー?】、【振られたらストーカー君って弄りたい】と湧き出る思いを共有し合った。
そんなこんなで学年は終了し、朱音も何とか進級が叶った。
春休みには、ようやく十六歳になった。
三日遅れで航海中の父からケーキの描かれた絵葉書が届いて、【俺が日本に居ない内に結婚しないで下さい。】と、書き添えてあった。
机に飾っていた毛糸人形と適当に描いた男の子のイラストを並べて写真に撮って、【ラブラブでーす】とハートの絵文字付きでステルスフォンで送信しておいた。
「隆紀が電話で泣いてたが、何やった」
祖父から凄まれたので、仕方なく【冗談でーす】と改めて送っておいた。
そうして三月末、『青春Playing』の正式版が発売された。
祖父母は早速、菅原教授のコネで格安購入した。
テスターには、シリアルナンバーの入力でテストプレイ時のデータを一部引き継げる特典があるらしい。
朱音は、そのうち自分で買う、と断った。
そう、そのうち。祖父母のように、しっかり現実を生きてから。いつか父のような人と結婚して、その人と老後に遊ぶのだ。そんな風に自分に言い聞かせている。
泣くぐらいなら――言い聞かせなければならない程なら、買ってしまえばいいのに。そう囁いてくる、もう一人の自分も居たが……
二年生になっても、朱音は朝刊配達のアルバイトを続けている。来年は流石に受験があるので辞めるつもりだから、今年度いっぱい頑張るつもりだ。
最近になって、配達地区が少し変わった。
これまでそこを担当していたお婆ちゃんが、年の所為か誤配が増えたらしい。その地区は少々、似た名前の家が多いのだ。オートバイを降りて階段を上がって行かないといけない家もある。体力的にもきつくなってしまったようだ。
朱音は去年引っ越してきたばかりだから詳しくないのだけれど、昔この辺りでは大貴族が隆盛を極めていたそうだ。
子孫は今やごく普通の一市民になってしまったが、昔の名残か、その貴族の氏と同じ一字を使った家が点在している。
実は宮園高校の校名も、その貴族の別荘が在ったという荘園跡地に建てられたのが由来らしい。
とにかくも、配達エリアはこれまでと方角が真逆だったが、広さは大して変わらない。電動自転車で、雨の日も風の日も、めげずに配る。
ただ、お婆ちゃんとは別の点で、朱音も少しばかりきつかった。
〝小田桐〟と貼り付けてあるポストへ、広告いっぱいの朝刊を挟む。続いて〝片桐〟。
(桐間先輩だけでも引っかかってたのに……)
やけに庭の広そうな一軒は、やや高台に在る。
ここは階段でなく緩い坂だ。電動アシストで屋根の付いている門の傍まで上がると、防犯ライトが点灯する。まだ春の内で、明け方は冷えるし辺りは真っ暗だ。この自動点灯の明かりは、秘かにありがたい。
自転車の両足スタンドを下げ、慎重に後輪を引っ張り上げて停める。アルバイトを始めたばかりの頃、ひっくり返してしまい、散らばった新聞を半泣きで拾い集めたのは苦い経験だった。このような坂でやらかしたら目も当てられないに違いない。
〝桐乃江〟と毛筆っぽい表札が嵌められている下側に、縦長の口になっている郵便入れがある。
(フィーリングって、あるんだなぁ)
〝桐〟の字を見て、朱音は微かに息をけぶらせる。
二年生でクラス替えが行われ、やっと朱音はクラスの女の子数人と友達になれた。
生徒会の仲間達とも、もう随分気安くなっている。
だのに、何処か違うと感じてしまう。
桐臣と出会っていなかったら、恐らくいだかなかった物足りなさ。
桐臣とは、どうしてか解らないが絶妙の間合いがあった。その上、例えそれを無視されたとしても、大丈夫だと信じ切れるようになっていた。
嫌いだった自分の一部も、嫌わないで済ませられた。
あれほど身の内に馴染む相手は、仮想空間だったからこそ得られたのだろうか……
表札から目を逸らし、朱音はそっと新聞を差し込んだ。




