スパイラル
暦は九月に変わり、二学期が始まった。
迷ったものの続けることにした朝刊配達をしてから、朱音は早めに登校した。
教室に一番乗りしてホッとしたのも束の間、自分の席が何処か判らない。五月以降に席替えしていたらお手上げだ。
しばし途方に暮れ、朱音はすごすごと英語科室へ向かった。担任の佐藤先生が居てくれて安堵する。
とはいえ、わたしの席、何処でしょう、と尋ねたら、先生は空席の位置を思い出すのに、またぞろ不安になるくらいには時間をかけてくれた。
確か……と、甚だ曖昧な口ぶりで教えられた席へ行ってみる。廊下寄りの真ん中。
教室には男子が一人、来てしまっていた。窓側の席で眠たげだったが、のこのこ入ってきた朱音を一瞥し、誰だ、という顔をする。
気まずかったけれど、ずっと休んでた人の席って、ここ? と朱音は訊いてみた。あー……確か、そう、と先生並のあやふやな回答が来る。
机の中が空なのを見て、横にデイバッグを引っ掛け、ひとまず朱音は椅子に腰かけた。
逃げ出すのは簡単だったが、復帰するのは一苦労だ。
気合いを入れて来たものの、朝のHRが始まる前から、くたびれてしまった。右上がりに【九月一日】と記されている黒板を眺め、朱音は小さく息をついた。
体育館での始業式後、生徒達はそれぞれの教室に戻る。朱音も集団に紛れて一年四組に入った。
クラス委員らしい眼鏡の男子生徒が声を上げ、夏休みの宿題を教科毎に集め始めた。後ろの席から回して、との指示で、朱音の列も重ねられた問題集が送られてくる。
後ろの席の女の子から戸惑い気味に渡され、朱音は自分の分を追加する。はい、と前の女子に声をかけると、やはりぎごちない仕種で受け取られた。
己の場違い感が凄い。
(転校生扱いで余所のクラスに移してもらうなんて事は、我が儘且つ今更か……)
諦めて、朱音は淡々と作業をこなした。
宿題集めが終わると、佐藤先生がゆうらりと教壇に上がった。簡単に近日の行事予定などを告げてくる。現実でも体育祭があるようだ。
ゲームの方は参加する気になっているが、現実の方は強制参加だし憂鬱だ。
誰がどの競技に出るかというのは明日決めるようで、本日はお終いになった。眼鏡委員の号令で、さようなら、と挨拶する。
ざわめきが湧き起こり、みな帰り出す。担任と副担任、委員と彼を手伝う二人ばかりも、宿題の束を抱え、相次いで教室を出ていく。
朱音もデイバッグを手にした。背に負いかけた時、思いがけず、横手から来た女子が話しかけてきた。
「ねー、森サンてさぁ、クソつまんないゲームのテスターしてなかった?」
意外な台詞に、目を見張って朱音は相手を見た。
背の高い子だ。面長で、つり目が細いが、しっかりメイクして非常に大人びている。栗色にカラーリングしたストレートの髪は、背の中ほどまであった。
発言からして、恐らく彼女も『青春Playing』のテスターだ。しかし、見覚えが無いから知っている人なのかも全く判らない。
それより何より、家族以外で、こんな身近に仮想空間を共有していた人が居るとは思ってもみなかった。
頭の中がぐるぐるしていたけれど、朱音はなんとか顎を引く。彼女の脇で、三人ほどついて来ていた女の子達が、ゲーム? と呟くように反復して口を曲げる。
少女は友達の反応を余所に、やっぱりぃ? と身を乗り出した。
「なぁんか見た顔だと思った。すっげぇね、顔そのままで遊んでたんだ」
「……あー、急いでたもんだから」
どちら様、と訊くべきか決めかねて、朱音は笑って誤魔化す。
「つーか、もしか、まだやってたりすんのぉ?」
信じらんないと続けそうな口調に、つと、朱音は一人に思い当たった。まじまじと見直す。
髪先を弄る指は、ネイルに鮮やかなピンクを使っている。赤いストーンまで散らしてあった。一応進学校なので、授業が始まったらやめるだろうけれど。
「もしかして、桃姫?」
桜高校へ初めて行った日に出会った、小顔の可愛かった子。
そりゃ拙いでしょうとしか言いようの無いアルバイトに登録し、見せしめに近い罰を受けた子。
「姫……? モモカでしょ」
友達の一人がぼそっと言って、〝桃姫☆〟はハッとしたようだった。朱音を睨んでくる。
「ちょっと、わたし、もうあんなクソゲーしてないんだから。変なコト言い出さないでよね」
朱音は眉を寄せた。自分から絡んできておいて、その言い草は無い。
「別にいいけど。イケさんに借りたのは返してから辞めたら」
「はぁ?」
モモカは、何の話か判っていない顔つきになった。
彼女に結構な額のVマネーを貸したイケメンZは、しばらく愚痴っていた覚えがある。もういい加減、忘れているかもしれないけれど。友達登録をしていないし、朱音のログインが減ったこともあって、彼とは随分会っていない。テスターを続けているかも定かではなかった。
(しまった。言わなくていいこと言った)
朱音が失言を悟ったのとモモカが思い出したらしいのは、ほぼ同時だった。
「キモっ――あのオヤジ、未だに金のコト言ってるとか?」
「や、それは判んない。ていうか、この場合は、イケさんがどうこうじゃないでしょ」
仕方なく朱音が応じると、モモカは苛立たしげに声を張り上げた。
「余計なお世話っ、学校サボってまでゲームしてた人に言われたくないし!」
ざわめきが残っていた筈の教室が、しんとなった。
(最悪だ)
何それ……と言いたげな視線が方々から刺さってくる。
モモカはグロスでてらてらした唇を歪め、荒く鼻息をつく。周りの一人が、朱音に忌避の目を向けつつ、モモカの袖を引いた。
「帰ろ。なんか知らないけど、世界が違うっぽいし」
朱音は独り、とぼとぼと家へ帰った。
昼食後には早朝アルバイトの余波もあって、泥のように眠った。
夕方、目を覚ました朱音は、枕に片頬をうずめたまま、溜め息をつく。
学校でやらかした事々は、寝たところで無かったことにならない。明日以降が億劫だ。
けれど、不登校には舞い戻れない。
父が、まだひと月は休暇で家に居る。
今朝方、玄関で、夏休み終わったんだね……と淋しそうだった。だが登校しなくなったら喜んでくれるかと言えば、それとこれとは別だろう。
気だるく寝返って天井を仰いだら、何か炒めるような匂いが鼻腔をくすぐった。朱音は慌てて身を起こす。祖母が、夕食を作り始めている。
「ごめん――寝ちゃってた」
朱音が小走りに台所へ入ったら、わかは笑い皺を深めた。大丈夫だよ、と穏やかに言う。
不意に、朱音は目頭が熱くなった。
焦って奥歯を噛み締め、コンロに乗っていたフライパンを見る。さっきの香は豚肉だったようだ。寸胴鍋も並んでいて、脇には既に切り揃えられた人参、玉葱、ジャガイモ、茄子にトマト、黄色いパプリカ。ニンニクとカレーのルー。
軽くワインも絡めたらしい豚肉を、祖母は寸胴鍋に移す。薄く油を加え、順繰りに野菜も投入。再び炒め始める。
朱音はバターを加えたフライパンで、茄子を炒めるように言われた。早速、取りかかる。
隣同士で手にしたヘラを動かしつつ、祖母はいつものように、楽しそうに話し出した。
昼過ぎに『青春Playing』へログインしてみたら、【貴方は白組です。】とお知らせがポップアップしたらしい。どこでもフォンでマサタカに電話をかけたら、同じ組だった。競技場前で待ち合わせ、何の種目に出るか、パネル操作を代わりにやってもらったそうである。
「パン食い競争をしたんだよ。難しかったけど、美味しかった。柾さんは仏頂面してたけどね、ちゃんと見ててくれたよ、ふふふ」
どうやら時間毎に何種目か開催されていて、好きなモノに登録、出場すればいいらしい。祖父は無難に、百m走に参加したと言う。祖母の感想は、例によって例の如くだった。
弱火でじっくり茄子を炒め終えた頃、いい匂い、と父が台所にやって来た。寸胴鍋の方は水と蜂蜜とローリエが追加され、中火で煮込み始めたところだった。
灰汁取りシートを乗せてから、祖母が笑顔で父を振り返る。
「好物にしてあげたよ」
「わーい」
幾つだ父よ、とツッコミたくなるリアクションで、四十五歳のバツ一子持ちは椅子に腰を下ろす。「母さんの野菜たっぷりカレー、懐かしいなぁ」
朱音はフライパンに耐熱蓋をしながら、どくりと心臓が鳴った気がした。
父の好物を、今日の今日まで知らなかったことに気づいたのだ。
原因は、父が滅多に帰って来なかったからだけではない。
元妻が、全くと言っていい程、家事をしなかったからだ。
そして朱音も、自分の分だけ何とかする程度にしか、家事も炊事もしようとはしていなかった。
これまで、帰国した父が、せっかくだから外で食べようか、と苦笑気味に誘ってきた過去に愕然としてしまう。
あの女性が最も入魂していたのは美容だった。努力を結実させてはいたので、周りからはいつも、若い、美人、と評されていた。朱音も幼い頃は、他の母親より段違いに綺麗な母がとても自慢だったのだけれど……
(父さん、抜けてるから、見てくれだけで結婚しちゃったっぽいなぁ)
祖母に似たのか見目も悪くない父だ、もっとましな相手が居たろうに。
僅かな罪悪感も混じった何とも言えない心地で見やると、父は何やら誤解した。おろおろと言葉を添えてくる。
「あっ、今日は母さんだけじゃないね、朱音も作ってくれてるね。うん、うん、俺、幸せだなぁ」
最後にへにゃりと垂れ目を細めたところで、祖父も台所に来た。
「隆紀、厚紙は資源ゴミだぞ。燃えるゴミに混ぜるな」
あー、ごめーん、と隆紀はわかそっくりに笑って誤魔化す。
柾高は、厳めしい顔でぎろりと見据えた。
「お前、VR眼鏡なんか買ってきて、船に持ち込むつもりなのか」
え、と朱音が声をあげる間に、父はひらひらと手を振った。
「いや、そこまでは。今日の昼間、みんな寝てるんだもの。親父と母さんは仲良く眼鏡だし。俺も一緒に遊んでみたくなっただけ」
〝仲良く〟と言われた祖父は、しかめっ面になる。
「あのゲームはテスター限定の非売品だ」
「ホントにねぇ、ソレを忘れてた。お店の人に名前言っても通じなくて、焦っちゃった」
あらぁ、と祖母が苦笑する。朱音は呆れた。
VR眼鏡一式は、五十万ちょいかかる代物だ。森家の三台は、元々持っていた柾高はともかく、朱音専用機は祖父母が今回のテスターに際して奮発して買ってくれた代物。わかの使っているのは菅原教授からのレンタル品である。
国際船の航海士は割と稼ぐ。元妻の使いまくっていた分がごっそり浮いて、父の懐は潤沢になっているようだ。
一台で複数ユーザー登録が可能だと聞かされた父は、じゃあ母さんに預けとく、と肩をすくめた。
「お夕飯の後でリバーシでもやる?」
朱音が言ったら父は一瞬顔を輝かせたが、祖父を見て笑顔を固める。
「お、俺、親父に遊んでもらおうかな」
父がしょんぼりしながら言うので、朱音は祖父に目を流す。柾高は素知らぬ顔で冷蔵庫を開け、並んだフルーツタルトに硬直していた。
わかが、ポンと手を叩く。
「そうそう、オミ君が朱音ちゃんにログインしてほしがってたよ」
「ふぅん?」
「タイク祭の組分け、ログイン順で交互に振り分けられてるみたいなんだけど、オミ君、友達がみんな白組みたい」
「つまり、オミは白じゃないわけね」
「そうそう、紅」
「じゃ、わたしも白になってとどめを刺そう」
ふふふ、と朱音が悪い笑みを浮かべていると、父が身を乗り出した。
「だ、誰、オミ君て。男!?」
「いい子だよ」
わかがにっこりと言えば、柾高はせせら笑った。
「随分と警察の世話になってるようだがな」
「ちょっと待って、学校のゲームじゃないの!?」
父が悲痛な声をあげる中、お風呂掃除してくるー、と朱音はとんずらした。




