父と娘と友達
夏休みが残り一週間を切った日、父、隆紀が帰国した。
大体の時刻は判っていたけれど、迎えにも行かず、朱音は自宅で宿題をしていた。
前回に帰って来たのは去年の末だ。
その時、母だった女性が、待ちかねたように離婚届を突き付けたのだ。
それ以前から朱音は彼女の言動を怪しんでいたけれど、まさか娘の高校受験直前というタイミングでしでかしてくれるとは予想外だった。
朱音も茫然としたが、父も同様に見受けられた。
隆紀の場合は、妻を微塵も疑っていなかったようだから、思いがけない要求をされたという意味での茫然だったと思う。
貴男の子じゃない子が居るのよ、と腹を撫でつつ言ってのけた妻に、隆紀は俯いて、そう、とだけ低く言った。言って、すぐに書類へサインした。
そのまま全く責めもせずに浮気相手の元へと妻を送り出し、一人娘を実家へさっさと託した。
唐突な転居先で朱音が種々の憤りにまみれている間に、父は当時住んでいたマンションを速やかに手放していた。実は見当違いの慰謝料まで請求されていたようだが、それは弁護士を雇って返り討ちにしたらしい。
あの頃の朱音は、母の理不尽に父が諾々と応じているようで、むかむかしてしょうがなかった。
今にして思えば、父は多分、朱音が居たから泥沼の争いを避けたのだ。ふた月ばかりで再び出航することになっていた父には、一人娘を巻き込んでまで争っている余裕も無かったろう。
数ヵ国語を操れるくせに、母国語が口下手気味な父。通信技術の発達した現代に、絵葉書へ踊った自筆を添えて近況を知らせてくるような父。海上で虫歯を治せずに、奥歯が一本無い父。
色々と抜けている人だが、朱音はそんな父が好きである。
これまでもろくすっぽ一緒に過ごしていないし、直近に会った時の一連の出来事も強烈過ぎたし、あまり素直に気持ちを伝える気にはなれないのだけれど。
自室のドアがノックされた。どうぞー、と返せば、父が顔を覗かせる。少し垂れ目の、ひょろりとした海の男。
朱音はペンを机に置き、軽く口角を上げた。
「おかえり」
父は、ほっとしたように笑んだ。
「ただいま」
後ろ手に持っていた物を、父は差し出してきた。「これ、お土産」
毛糸作りの細長い人形だった。大きな群青色のボタンが目になっていて、ぎょろりと光る。胴がやけに長い。頭のてっぺんに、吊るせるような紐が付いている。
「真ん中に釘でも打てと?」
「えっ、なんでっ、酷いことしないで」
「でも呪いの藁人形みたいだよ」
「……朱音に似てると思ったのに」
「……わたし、もう高一だから。分身とままごとする気にはなれないよ」
「き、君も大きくなったね」
「中二で成長止まったみたいだけどね」
父はおろおろと、娘の手に渡った人形へ目を移した。ドレッドヘアみたいな毛糸が長く伸びている。朱音がその髪を片側へ撫でつけて机の上に座らせてやっていると、父は思いついたように言った。
「短い髪も似合うね、朱音」
一瞬、表情が固まりかけたが、朱音は薄く笑った。
「父さんとお揃いだね」
「――うん」
眉尻を下げ、父は情けなさそうに笑みを浮かべた。
抜けている割に、父は物判りがいい。
朱音が母親の痕跡を消そうとしていると、気づいてしまったようだった。
夏休み最終日の夕食後に、朱音はようやく宿題を全て片づけた。
感無量で両の拳を突き上げる。
このところ父と仲良く出歩いたりしていたものだから、終わらせられるか危うかった。けれど、何とかなった。
自室のベッドへダイブして、早速VR眼鏡を手にする。当然の如く『青春Playing』を起動した。
謎エリアの不具合が解消されて以来のログインだ。
現れたのは寮の部屋。柔らかな羽毛布団の上。
現実よりも豪華に変貌したベッドで、横になった状態のまま、目の前にお知らせがポップアップした。
【イベント〝体育祭〟開催予告
九月一日より二週間、日本エリアでは体育祭を行います。
開催場所 サクラ競技場
参加方法 九月一日~一四日内にログイン
競技場特設パネルにて種目に登録
参加賞としてVマネー他、ございます。奮ってご参加ください!
※ 期間中は休日となります。
※ 期間中、競技場周辺の野生動物出現率は〇%になります。
※ 個人授業のみ、昼時間に受けられます。】
下の方に協賛企業名がずらずら並んでいるので、参加賞に某か品物が貰えるのかもしれない。
一日からは現実の学校へ行くつもりだから、アカネは参加できるか、明日以降になってみないと判らない。しかし何やら楽しそうだ。できれば参加したい。
【次から表示しない】を選んでからお知らせを消し、アカネは時刻を確認する。半休の昼Ⅲに向かっていた。
ちょうど良かった。あまり長々とはインしていられないし、現実で宿題を終えたばかりで、授業を聴く気分でもなかったから。
布団の一式を奮発購入した為、相変わらず懐は淋しい。久しぶりに本屋でアルバイトをしようと、アカネは桜高校の夏服で寮を出た。
八月も終わりだが、現実と同じく学園都市もまだ夏らしい。
仮想空間では日焼け止めを塗っていないし、なんとなく建物の影に沿って歩く。
書店が見えてきた所で、ばったり桐臣と会った。
よ、と手を上げ合う。少年はこめかみの辺りをTシャツの半袖で拭ってから、破顔した。
「珍しいな、この時間に」
「やっと宿題が終わった衝動で、来てみた」
「アカネのリアル学校、どんだけ宿題あったの。お盆前から宿題してなかった?」
「ふへへ。サボってたからさ」
「まぁ、オレもついこの前、片づけたばっかだけど」
桐臣はちょっと肩をすくめてから、それよりさ、とデニムのポケットから財布を取り出した。「部活ポイントで貰ったんだ」
「帰宅部で?」
「敢えて間違えるな」
財布から抜き出し、桐臣は目の高さに名刺大のカードを掲げる。【図書カード】とあった。アカネは口をすぼめる。
「読書部ってホントだったんだ?」
「漫画でもいいんだぜ」
「ははーん?」
それでも桐臣が漫画以外も読んでいるのは、この前のやり取りで判明している。
読書部は割と緩いクラブで、雑誌以外なら読んだとカウントされるらしい。但し、頁をぱらぱらめくっただけだとノーカウント。判定はきっちりしているようだ。
現実が夏休みだったこともあり、桐臣はログインしては色々と読んでいたそうだ。そうしたら部活ポイントが一〇〇に達し、アイテム欄にカードが贈られてきたと言う。
「このカードに一からポイントが溜まり始めたんだけど、一万まではVマネーの本を買うのに使える」
「おぉ? いいね」
「いいのは一万の先なんだ。一万使わずに溜めると、百Rコインと交換できるんだって」
カードを財布に戻しながら、桐臣は嬉しそうに言う。アカネは小首を傾げた。
「百円か……妥当と言えば妥当な額なのかな」
「仮眠や飲食でポイント上乗せすれば、きっかり一万冊読む必要はないんだぜ。百溜まったのも速かった。漫画喫茶で五十冊前後読み耽ってたら、いつの間にかだったから」
「漫画喫茶は利用にRコイン要るんじゃない?」
「カラオケと同じ。現実の半額くらい」
軽く答える桐臣に、アカネは肩をすくめる。
「オミ、Rコイン、もう使い切り寸前?」
「まさか。使い切ったのは姉さん。オレは、テスター期間まだ三ヶ月あるし、残してある。渡航チケットもペナ受けてた所為で買い損ねたし」
Vマネー、漫画、目覚まし、カラオケ、漫喫くらいかな、と桐臣は思い返すように挙げる。意図的に隠している様子は無い。
(その容姿、少しも弄ってないわけ?)
「ていうか、帰宅部はさ、〝Loving Home〟て書かれたピンバッジ貰えるらしいよ」
すっかり見慣れた顔が、屈託なく続けた。「弓道や料理だと何が来るんだろな」
朱音は瞳を上向ける。
「弓とか包丁?」
「武器かよ」
可笑しそうな桐臣の声に混じって、ポーンと云うシステム音に続き、父の低音がやんわりとアカネの耳に入ってきた。
〔朱音、お風呂だよ〕
うん、と応じそうになって口をもごもごさせる。桐臣がちょっと奇異の目を向けてきたので、アカネは誤魔化すように顔の前で手を振った。
「ごめん、ダイレクト通信来た。落ちるね」
「あぁ、おやすみ」
納得したように頷いて片手を上げる桐臣に、おやすみぃ、と笑んでアカネはログアウトした。
身を起こしてVR眼鏡とイヤーカバーを外すと、ベッドの端に父が腰かけていた。湯上りの、石鹸の香がする。
「御機嫌だね?」
「そう?」
髪を撫で上げ、朱音は小さく笑った。「友達と喋ってたからかな」
「学校のゲームなんだって?」
うん、と首肯し、朱音は顔を傾ける。『青春Playing』というのは、他にどう説明したらいいのか、すぐには浮かんでこない。
本当にみんな、ただただ、十六歳の日々を過ごしているだけだ。
「その友達、ゲームの前から友達?」
父の新たな問いかけに、そんなわけないじゃん、と応じかけたが、朱音は黙って首を振った。
祖父母が伝えたかもしれないけれど、朱音自身は不登校だったのを父に話していない。
二月の末に船出した時の父は、離婚のごたごたで憔悴していた中、娘が高校に受かったのを一筋の光明のように喜んでくれていたのだ。
遠方への急な転居で、朱音は土壇場になって志望校を変更した。あの状況で、自分でもよく合格できたと思っている。
同じ中学校から受験した人は一人も居ない。ひと月で通わなくなり、新しい友達も居ない。
現状、朱音の友達は仮想空間にしか居なかった。
その事実を口にするのは、流石に淋しい。父にも余計な心配をかけそうだ。
朱音はVR機器を片づけながら、当たり障りの無いコメントをした。
「まぁ、リアルでも友達になれそうな子」
父は、真顔で不安げに見つめてきた。一所懸命の様相で、たくさん言葉を紡ぐ。
「もしも実際に会う約束するなら、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんには、ちゃんと言ってね。ぜ、絶対だよ。朱音の友達を疑いたくないけど、女の子のフリをして実は変なおじさんだったら、困るからね」
「……うん」
男の子の友達だと告げたら話がこじれそうだったので、朱音は言わないでおいた。




