イッキ飲みの先にあったもの
いやいや、引いてますね二人とも。
ご心配なく。
少なくとも私は、自ら世界を滅ぼすような事はしていませんよ。
まあ、ラズリと似たような間違いを犯す可能性はありましたけどね。
…ホントに大丈夫だったんですか?
そうそう、ちょっと怖いですけど。
正直に白状するなら、一歩手前まで至っていた事は認めます。魔法陣も
きっちり構築しましたし、後はもう実行あるのみでした。だけど私は、
そこで踏みとどまったんです。
…どうして?
どうして踏みとどまれたんですか?
まあ、些細なきっかけですよ。
本当に何でもないきっかけで、私は私の運命を変えられたんです。
もう、ずいぶん昔の話ですけどね。
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…正直、今回の出張はちょっとした羞恥の拷問でしたね。
ラズリ・コルドネンの辿った人生は全て、私の道そのものでしたから。
ひたすら、強さと全能性を求めた。大賢者と呼ばれるに相応しい者に
近づくために、生涯を捧げました。オリンピックにも何度も出ました。
ほとんどの大会で、首位を独占したのも今では懐かしい思い出です。
延命術まで用いて費やした歳月は、ほぼ100年。長い人生でしたよ。
だけど、果ては見えませんでした。
本当に目指した強さと全能性には、一生をかけても届きませんでした。
もう一度、若い頃に戻りたい。
老いた私は、その衝動に身を任せて転生魔法陣を創り上げました。
若返るのは、簡単な事ではない。
人一人の体を時の流れに逆行させて年齢を遡るという行為は、摂理への
挑戦です。少なくとも呪文を唱えて一瞬で成せるような代物ではない。
長い時間をかけて、ほんの少しずつ世界から若返るための因子を得る。
それこそ何百年という時間が必要な魔術でした。
…構築できたんですか、その魔術を。
ええ。
今となっては、ラズリと同じ失敗をした可能性もあります。それでも、
老いて力尽きてしまう前に完成させました。あとはそれを発動させて、
遥かな未来に目覚めるだけでした。
それで?
そこまで準備して、結局どうしたんですか?
誰かに止められた、とか?
いいえ。
私を止めたのは
1本の瓶牛乳でした。
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あの日の事は、よく憶えています。
いよいよ未来への転生を実行すると決め、身辺整理をしていたある日。
ひとりの女性が訪ねてきたんです。ちょうど丑三ツさんくらいの歳頃の
赤毛の女の子でした。
何の用だったんですか、その子?
何の事はない、ただの営業ですよ。
牛乳配達のサービスを始めたから、顧客になって欲しいとの事でした。
断る間もなく、試供品を渡された。笑顔の圧に押し切られました。
言葉を交わしたのは、ほんの数分に過ぎなかったと思います。それでも
彼女の顔は今でも思い出せますよ。
…もしかして、一目ぼれとか?
きゃあドラマチック!
いやいや、違いますよ友永さん。
いくら何でも、今さらそんな感情を抱くような歳ではありません。
何と言っても100歳超えてましたからね。
単純に、印象が鮮烈だったんです。いや、彼女の印象ではありません。
「牛乳配達」なる概念そのものが、当時の私にはあまりに鮮烈だった。
生ものである牛乳を、瓶詰めにして毎朝宅配する…というシステムが、
私の知識の枠を超越していました。つい最近始まったらしく、画期的な
試みとして話題になっていました。もちろん私は、知りませんでした。
そんな時勢に目を向ける余裕など、まったくありませんでしたからね。
自分の探求しか見ていなかった。
今でいうカルチャーショックです。衝撃でしばらくは声も出なかった。
いつの間にこんなシステムができていたのかと、とにかく驚きました。
少なくとも私が若かった頃は、発想すらもなかっただろうと思います。
その場で飲み干した試供品の牛乳の味は、今でも忘れられません。
記憶の補正など無しに、それまでに飲んだいつの牛乳より美味でした。
たかが牛乳でさえ、長い歳月の中でこんな風に変わっていったのかと。
初めて思い知った瞬間でした。
その直後、急に虚しくなりました。
己がこれからやろうとしている事の意義を、完全に見失ったんですよ。
…え、瓶牛乳を1本飲んだだけで?
世界最高と謳われていた大賢者が?
お恥ずかしながら、その通りです。あの時の虚脱感は今も夢に見ます。
私は一体、何をしようとしていたのだろうか…ってね。
勘違いはしないで欲しいのですが、それまでの人生まで虚しいものだと
思ったわけではありません。生涯をかけて追い求めた強さと全能性は、
その途中でいくつもの閃きや発明を生み出した。それを世界に発表し、
社会に貢献をした実績もあります。大いに稼いだ事だってありました。
他には目もくれず邁進した生涯に、悔いなど無かったと断言できます。
でもね。
究められなかったから、未来に転生してやり直すのは違うと思った。
そこまでして追求すべき事なのか、確信が持てなくなったんですよ。
もちろん、転生術というもの自体を否定する気は、今でもありません。
人生をもう一度という考えは、別に邪悪でも何でもないからです。
結果は分かりませんが、少なくとも誰かに迷惑をかける気もなかった。
ただ、自分の道を究めたかった。
そんな考えを、あの1本の瓶牛乳が根底から破壊してしまったんです。
もういいじゃないか。
生涯をかけて挑んだのならば、今の自分がその到達点だと思っていい。
ここまでしか出来なかった、という捉えた方ではなく、生涯をかけて
ここまで至ったと捉えればいいと。初めてそんな風に思えたんですよ。
確かに自分は、魔術だの何だのでは誰よりも知識と力を叡智を得た。
だけどそれと引き換えに、牛乳配達さえ知らない世間知らずになった。
だったら転生した後、全然違う事に挑戦した方がいいんじゃないかと。
それまでの事は大切な記憶として、また新しい事をやってみたいとね。
だけど、つくづく残念でした。
何がですか?
牛乳配達の契約ができないのが。
残念で悔しかった。
老い先短い身では、継続などとてもできない。しかし転生したならば、
あの女の子もとうの昔に死んでいる未来にしか辿り着けない。もはや、
詰みの状態だったんですよ。
せっかくある種の悟りを得たのに、何もかも手遅れだったって事です。
もっと早く目を向けていれば、また少し違った世界にも気付けたのに。
虚脱感に襲われました。
万全の状態で構築した魔法陣の前に座り、ぼんやりと考えていました。
これで未来に転生したとして、私に何ができるんだろうとね。
百余年に渡る知識を持ったままで、いわゆる「強くてニューゲーム」を
やりたいのかと。そう考える度に、形容し難い虚しさに襲われました。
おそらく転生した後でも、今のこの虚しさはついて回るんだろうなと。
そう考えると、もうここで終わっていいんじゃないかとさえ思えた。
まさか最晩年になって、生きる意味を丸ごと見失ってしまうとはね。
何だか可笑しくなって、誰もいない部屋で大笑いしていましたよ。
そう、泣きながら笑っていました。
その時です。
いきなり声をかけられたのは。
「何を笑ってんの?」
年甲斐もなく、飛び上がりました。本当にびっくりしました。
何の気配も感じさせずに、この私のすぐ後ろにいた事に何より驚いた。
恐る恐る振り返った先で、訝しげな表情を浮かべて立っていた相手。
それは、転生の女神でした。




