第25話:津波の始まり
第2章:出雲東征準備編
第25話:津波の始まり
――夜明け前、隼人のクニを深く包んでいたのは、凶暴な潮騒の音すら掻き消すようなおぞましい地響きだった。
里を囲む峻険な断崖の尾根。そこに現れたのは、大和の本国軍ではない。
荒ぶる獣の皮を纏い、顔面を赤黒い泥で塗った凶暴な戦士団――「熊襲」。そして、整然と並ぶ掛甲の陣形を組み、重厚な装甲で身を固めた筑紫の精鋭――「磐井」。合わせて五千を超える地上の軍勢が、蟻の這い出る隙もないほどに、隼人の拠点を完全に包囲していた。
「……大和の猟犬か。いや、大和の絶対の支配の前に尊厳を売った、哀れな尖兵どもか」
広場の中央、イワレビコは新たに接合された黒鉄の義手の指を、一つずつ確かめるように深く握り込んだ。
ぎち、ぎち……。
背筋の連動ワイヤーが大型弩の発条を引っ張り、鋼の指先が耳障りな硬質の金属音を立てて収縮する。左肩の凄絶な断面を隠す黒漆の接合部からは、彼の狂気的な執念が、熱気のように不吉に立ち上っているように見えた。
「イワレビコよ! その首を大人しく差し出せ!」
崖の上から、磐井の将が傲然と吠えた。
「お前一人が無謀にも大和に抗ったせいで、我らのクニは大和からの供物の倍増を命じられたのだ! お前のその首こそが、我らが今日を生き延びるための、唯一の献上品だ!」
その冷酷な言葉を聞いた瞬間、集まっていた敗残兵たちの中に激しい動揺が走る。自分たちの抵抗のせいで、罪なき他者が苦しんでいるという凄絶な加害者意識――。それは、大和の物理的な暴力よりも深く、確実に人間の心を折る呪いだった。
「……ニニギ。下がっていろ」
イワレビコは、黒石補強の大盾を構えようとしたニニギを片手で静かに制し、ただ一人で軍勢の前に歩み出た。
右手には、超高比重の大矛『天の沼矛』。左手には、隼人の知恵が詰まった黒鉄の機械式義手。
「……供物を捧げて、いつまで生き延びるつもりだ」
イワレビコの声は低く、しかし拠点の隅々にまで鋭く届くほどに響き渡った。
「明日、その供物がお前自身や、お前たちの愛する子供に変わるだけではないのか」
「黙れ! 今この瞬間を生きられぬ者に、明日などないわッ!!」
熊襲の戦士たちが、悲壮な咆哮と共に断崖を激しく駆け下りてきた。彼らは野獣のような俊敏さで、鋭利な石斧や投げ矛を容赦なく放ち、長の肉体を狙う。
イワレビコは、黒鉄の義手の左腕でアメノヌボコの強固な柄を支え、一歩深く踏み込んだ。彼が背筋に極限の力を込めると、義手のワイヤーが引き絞られ、アメノヌボコの超高比重の質量が、凄絶な速度で横一文字へと振り抜かれた。
――ごおぉぉぉぉんっ!!
アメノヌボコ自体の圧倒的な重量と、義手の膂力、そして海の民特有の回転運動が生み出した、凄まじい物理の衝撃だった。突進してきた熊襲の突撃兵たちが、石斧ごと武器を物理的に粉砕され、凄まじい風圧に押し流されるように砂の中に無様に叩きつけられる。
「な……!? 何だ、この常軌を逸した力は!」
「……次は、矛だ」
イワレビコはアメノヌボコの黒い大矛を、一寸の狂いもなく磐井の将へと向けた。黒鉄の義手で大矛の柄をがっしりと固定し、己の背骨のばねを穂先の一点へと極限まで集中させる。
――穿て。
放たれた一突き。
大矛は空気を切り裂くのではない。高比重の質量が空間の密度そのものを圧縮し、一直線に進んだ。磐井の将が絶対の自信をもって掲げていた重厚な盾を、その鉄の穂先は容易く貫通し、その鉄面の飾りを鮮やかに弾き飛ばした。
殺してはいない。だが、その一撃に込められた圧倒的な『格』の違いに、押し寄せていた五千の軍勢が、水を打ったように静まり返った。
「……俺を殺して大和に媚びを売りたいなら、今すぐそうしろ。だが、俺を殺した後に貴様らに残されるのは、また元の家畜としての日々だけだ」
イワレビコは、黒鉄の義手の鉤爪で、大矛の鈍い刃を静かに擦りあわせた。ぎち、ぎち、と不気味な火花が散る。
「……俺と共に来い。大和を殺し、供物のいらぬ世を創る。そのための盾に、お前たちのその命を俺に貸せ」
長い沈黙。
ただ激しい太平洋の波の音だけが響く中、熊襲の戦士の一人が、ゆっくりと己の石斧を地面に置いた。一人、また一人と、磐井の重装兵たちも矛を下げ、片腕の長を畏怖の目で見つめた。彼らが本心で求めていたのは、大和への惨めな生け贄の座などではない。理不尽なシステムと戦って死ぬ尊厳を与えてくれる、真の強者だったのだ。
「……マカツの……いや、人間軍の長よ」
磐井の将が、傷ついた鉄面を脱ぎ捨て、泥の上に膝をついた。
「我ら五千の命、あなたのその大矛に預けよう。……家畜のまま無音に死ぬのは、もう御免だ」
イワレビコは振り返らず、ただ澱んだ北の空を見上げた。
南の果ての民、隼人。そして、ここに寝返った熊襲と磐井。地上の人間軍は今、大和の天下の理を呑み込むための、万を超える巨大なゲリラ勢力へと急速に膨れ上がった。
「……マカツへ、還るぞ」
それはもはや、無残な敗走などでは断じてない。大和の絶対的な王座を根こそぎ呑み込むための、真っ黒な「津波」の始まりだった。




