第16話:数式としての大和
巻の二:神殺し戦記(上)
第16話:数式としての大和
勝利の味は、砂を噛むようだった。
大和の物流拠点である「北の鉄塞」を大破させた一行は、さらに過酷な荒野へと進んでいた。
イワレビコの歩みは、もう誰にも止められなかった。超重量の鋼鉄剣――フツノミタマを強引に片手で振り回し続けた自傷的な肉体損壊の代償。彼の左腕は内出血で黒く壊死し、骨格が歪に脱臼して変形したその左手は、人間の皮膚の質感を完全に失い、硬質化した黒いかさぶたに覆われていた。
彼が吐き出す息は白く、しかしそこには、連日の不眠不休の戦術指揮と極限の戦場ストレスによる、肺の喘鳴が混じっていた。
「……殿、少しは休め。……おい、聞いてんのか」
後ろを歩くニニギが、血のついた手で彼の肩を不意に掴んだ。
その瞬間、イワレビコは肉体の条件反射のままにフツノミタマを抜き放ち、ニニギの喉元へと鋭く突きつけていた。
超重量の漆黒の鋼鉄刃から溢れ出る、一切の感情を排した冷徹な殺意が、ニニギの肌をちりちりと威圧する。
「……触るな。……次は、斬る」
イワレビコの右目――かろうじて人間として残された漆黒の瞳――に、一瞬だけ激しい後悔が走る。だが、過酷な黒煙と精神崩壊によって黄金色に歪んだ左目は、眼前の戦友をただの「障害物」としてしか捉えてはいなかった。
「……っ。ああ、そうかよ」
ニニギはゆっくりと手を離し、苦々しく唾を吐き捨てた。
二人の間に確かに流れていた、親愛という泥臭い温もりは、大和の兵を殺すごとに冷酷に削り取られ、今や殺伐とした軍事の空気だけがその空間を支配していた。
「……無駄な争いはよせ。獲物が、まだ息をしているぞ」
ニニギの背に背負われたスイゼイが、傷ついた肩を抑えながら前方の残骸の底を指した。
破壊された鉄塞の中心。崩落した木石の主門に下半身を無様に押しつぶされた一人の大和の将校が、生々しい真っ赤な血を流しながら横たわっていた。カグヤマに次ぐ、明らかに地位の高い将軍の側近だった。
イワレビコは音もなく歩み寄り、その男の首筋へと、黒く壊死した左腕でフツノミタマの漆黒の刃を突き立てた。
「補給砦は壊した。……次はどこだ。大和の心臓部の配置は、どうなっている」
だが、その大和の将校は命乞いをすることさえしなかった。それどころか、彼はイワレビコの肉体がボロボロに崩壊している姿を見つめ、くつくつと喉を鳴らしてあざ笑い始めたのだ。
「……はは、は……。哀れな辺境の小首長。……自らの肉体を兵器に変え、己を捨て、そこまでして大和の王座に届いたつもりか」
「何が……おかしい」
「物流拠点を一つ壊しただけで勝ち誇るか。……虫けらよ、お前が殺した兵など、本国の『台帳』に記された数多の数字の、ほんの一欠片に過ぎぬ。お前がどれほど兵を殺そうと、大和のシステムは台帳から次の贄を機械的に徴用し、送り出すだけだ。お前は人間ではなく、巨大な数式と戦っているのだ。その広大さを、貴様らは理解しておらぬ」
大和の将校の瞳に、冷酷な憐憫の色が浮かび上がる。
「お前がワタツミの海民たちを率いたところで、それは日向灘の急潮流の利に過ぎん。……大和の最高軍事指揮官、将軍タケミカヅチの本隊が動けば、そのちっぽけな反乱の火など一瞬で圧殺される」
「……タケミカヅチ」
「そうだ。大和王権最強の総大将。……彼が本国軍を率いて腰を上げた時、お前たちは知るだろう。大和とは倒すべき敵などではなく、ただそこに在るだけで、従わぬ部族の根絶を強いる絶対的な『支配システム』そのものであることを……」
男は首筋に突き立てられた黒刃を自ら強く引き込み、生々しい人間の血を灰の上に撒き散らしながら絶命した。大和の冷徹な官僚としての殉職。だが、その最期の嘲笑が、いつまでもイワレビコの耳の奥から離れない。
「……タケミカヅチ。その名、知っているのか、スイゼイ」
イワレビコが、重く、地鳴りのような喘鳴を響かせて口を開いた。スイゼイの顔から、さらに血の気が引いていく。
「……大和の最高執行者だ。カグヤマが前線の調停官なら、タケミカヅチは大和王権が誇る常備軍の総大将そのものだ。戦うという概念すら成立しない……。彼が率いる数万の掛甲歩兵軍団が現れた瞬間、逆らう部族は一晩で地上から消去されると言われている」
その時だった。
東の日向灘の方角から、空気が重く静まり返るような不気味な地鳴りが響いてきた。雷鳴ではない。
大和の本国軍が瀬戸内海を抜け、東の海――日向灘の海上封鎖を完了し、全航路を物理的に包囲・圧殺せんとする、数千隻の巨大軍船の進軍を告げる巨大な「軍鼓の音」の響きだった。
「……来たな」
イワレビコは、黒く壊死した指先を静かに東の水平線へと向けた。
遥か東の海平線。そこには、大和の圧倒的な建造技術を誇る準構造船の、無数の白い帆の群れが、不気味なほど整然と、しかし確実に日向の海を完全に包囲するように狙いを定めていた。




