第15話:消えゆく名前
巻の二:神殺し戦記(上)
第15話:消えゆく名前
辺りは、炎上する鉄塞から立ち上る真っ黒な黒煙に包まれていた。
大和の物流の心臓部であった「北の鉄塞」の主門が物理的に叩き割られたことにより、砦の内部に集積されていた膨大な木材や未精錬の鉄鉱石、臨時の物資接収によって蓄えられていた大量の水銀朱の集積棚が、悲鳴を上げて一気に大崩落を起こしたのだ。
主門の崩壊にスイゼイが放った火矢が引火し、砦全体が、大和の支配の象徴である赤を汚し尽くすかのように、不気味な赤紫色の有毒な水銀ガスを吹き上げながら、物理的な大爆発とともに燃え盛っていた。
水銀朱の熱分解――吸い込むだけで脳の神経を冒し、手足を激しく震わせる死の金属霧が、砦の内部にいた大和兵たちの神経を容赦なく破壊し、彼らは無様にのたうち回りながら自滅していった。
やがて、凄惨な死の静寂だけが戻る。
かつて大和の強固な補給拠点だった跡地は、地上の富を吸い尽くされたような、赤黒く融解した鉄滓の流れる巨大な残骸の穴と化していた。
生き残ったのはイワレビコ、ニニギ、環境負荷を生き延びたスイゼイのみ。大和を裏切ったアメノワカヒコは、すでに大和の警戒網の隙間に身を隠し、本国へ「偽装戦死」の報を送るために影へと潜んでいた。
死力を尽くして付き従ってきた数十人のマカツ兵たちは、一人残らず、大和の放った大型弩の火矢の豪雨によって肉体を物理的に引き裂かれ、生々しい灰の山となって消え去っていた。
イワレビコは、その焦土の中心でただ一人、立ち尽くしていた。
彼の左腕は、もはや正常な人間の形状を留めてはいない。超重量鋼鉄剣を限界を超えて片手で振り回し続けた過酷な遠心力負荷により、指先や手首の関節は歪に脱臼して肥大化し、内出血によって黒く壊死した皮膚が、まるで硬質な鱗のような強固なかさぶたとなって腕全体を覆っていた。
そこからは、いま物理的に叩き潰した大和の精鋭兵たちの生々しい真っ赤な血が、どろどろと滴り落ちていた。
息は、している。それだけは確かだった。
だが、その呼吸の音は、かつての長の物ではなかった。極限の精神的・肉体的な過負荷によって肺を侵され、低く湿った喘鳴を響かせていた。
イワレビコは、ゆっくりと自分の右手を見つめた。
右手だけが、まだ酷使されていない人間としての肉の色を辛うじて保っている。
最初の荒野で大和の哨戒兵を初めて殺した夜、この右手だけが激しく震えていた。あの時は理由がわからなかったが、今はわかる。あれは、平和な長であった人間の手が、己がまだ人間であることを懸命に確認しようとしていた「拒絶の震え」だったのだ。
今、その手は微塵も震えてはいない。
震えるための人間らしい感傷が、もうそこには残されていないのだ。
右手の甲に、過酷な肉体破壊の予兆を示す、一本の不吉な黒い内出血の筋が走っていた。イワレビコはそれを見つめた。見つめて、しかし何も感じなかった。何も感じぬことへの恐怖さえ、もう彼の心には残っていなかった。
それこそが、彼にとって最も深い、取り返しのつかない『精神の喪失』だった。
「……勝ったぞ、殿」
ニニギが、頬の涙を拭うことさえ忘れたまま、焼け焦げたヤタガラスの大盾を引きずりながら歩み寄ってきた。
「お前のおかげだ。こいつで、大和の補給網は完全に破綻した……」
イワレビコが、ゆっくりと首を巡らせた。
その黄金色に歪んだ瞳に、ニニギの泥臭い姿は確かに映っている。だが、そこには以前のような友としての親愛も、勝利の安堵もなかった。内面にはいかなる感情の波紋も浮かび上がらない。
「……次は、どこだ」
その声を聴いた瞬間、ニニギは背筋に凍りつくような寒気を感じた。
イワレビコは、足元に転がっているかつての部下たちの遺品――血と泥に汚れた防具の残欠を無造作に踏みしだき、炎上する鉄塞の出口へと歩き出した。
名前が、消えていく。
タカクラジ。その名前は、まだ脳内にある。ナガハ。それもある。
だが、つい先ほどまで隣で泥水を啜り、目の前で大和の火矢に焼かれて死んでいった兵たちの顔と名前が、深い忘却の霧の向こうへ急速に沈み込んでいた。
――これが、代償。
大和を殺すたびに、凄惨な黒煙と血を浴びるたびに、不眠不休の戦術指揮と極限のストレスによって、人間だった頃のあらゆる愛しい記憶が、脳の自己防衛によって物理的に消去されていく。
怒りではなく、悲しみでもなく、ただ静かに、人の輪郭が精神から消去され、大和のシステムを破壊するためだけの冷徹な「兵器」へと作り変えられていくのだ。
イワレビコは歩き続けた。一度も振り返らなかった。
その光景を、大和盆地の最高居館から冷めた目で見つめる男が一人。
「……少しはましな抵抗をするようになったな、辺境の虫けらが」
大和の本国軍を率いる最高指揮官、将軍タケミカヅチ。
彼がゆっくりと合議の席から立ち上がっただけで、紀伊水道と播磨灘に配備されていた大和の全水軍、および掛甲歩兵の本隊が、瀬戸内の東の『蓋』を完全に閉め、マカツを豊国の海へ孤立させて完全に消し去るための、漆黒の挟み込み進軍を開始した。




