第10話:天の刃フツヌシ
巻の二:神殺し戦記(上)
第10話:天の刃フツヌシ
大学の研究室で、私は全身の震えを抑えきれずに、現代語訳の末尾に二重線を引いた。
「アメノカグヤマを討たれた大和王権が、ついに本国から『タケミカヅチ』の常備軍本体を投入してくる……。マカツを包むのは、勝利の余韻などではなく、この地上の生命すべてを消し去るための、文字通りの殲滅作戦の開始だ。イワレビコが、この九州の地を捨てて『東』へと向かわざるを得なかった本当の理由が、ここですべて繋がった!」
私は紫煙を吐き、画面の次の行へと目を走らせた。
――夜明け前、マカツの廃墟を包んでいたのは、霧ではなく銀色の殺気だった。
野営地の外周で見張りに立っていた三人の兵が、声を上げる暇もなく崩れ落ちた。
首を跳ねられたのではない。喉元の細い血管を一筋、産毛を剃るような速さで完璧に断ち切られていた。
「……来たぞ。全員、起きろ!」
イワレビコの咆哮が、黎明の静寂を破った。
黒い左腕は脈動し、内出血の黒い紋様が首筋まで走っている。フツノミタマは、持ち主の怒りに呼応するように低く唸った。
霧の向こうから、一人の男が歩いてくる。
馬もない。重装掛甲もない。ただ雪のように白い着流しを纏い、細身の直刀を差した静かな男。
鉄面はない。ただ、研ぎ澄まされた鏡のような無表情。
「おいの名はフツヌシ。将軍タケミカヅチが配下、天の刃じゃ」
その声は、風に触れただけで肌が切れそうなほど鋭かった。
フツヌシはイワレビコの黒剣を一瞥し、眉をわずかに動かした。
「……その剣。かつて大和が不浄として打ち捨てた、渡来の忌み物。まさか、辺境の長の手にあるとはな。カグヤマが不覚を取った理由が分かった。……じゃっどん実に、不快だ」
次の瞬間、男の輪郭が視界から消えた。
「ニニギッ!」
「分かってるッ!」
ニニギが大盾を構え、イワレビコの前に割り込む。
――きぃィィィィんっ!
耳を劈く高音。ニニギの盾に一本の銀の線が走った。
それは重量ではなく、不純物をミリ単位で排除し、刀身を極限まで薄く研ぎ澄ますことで、分厚い鉄すら分子レベルで切り裂く大和の極薄鍛造鋼の剣理だった。
「が、ああッ……重い! なんだ、この一撃は……!」
ニニギの巨体が、わずか一太刀で数歩後退する。
「……盾など、無意味だ」
フツヌシは再び死角へ滑り込み、今度はニニギの背後に音もなく立っていた。
「逃がさん!」
イワレビコがフツノミタマを払う。黒剣の質量が空気を裂き、フツヌシの軌道を送る。
だがフツヌシは直刀の面で鮮やかに受け流した。
極厚の黒鉄と、極薄の銀鋼。二つの異なる鉄が、至近距離で激突する。
「……その腕。既に人間のまともな肉じゃなかな」
フツヌシの瞳が黄金の目を射抜く。
「大和を殺すために、自ら肉体を破壊するか。……滑稽だ。その鉄の重量においの骨が砕け散るのが先か、おいがわいの首を落とすのが先か。試してみるか?」
直刀が針のような刺突を放つ。肩、脇腹、太もも――フツノミタマの速度を完全に凌駕する精密な突き。
「ぐ……っ!」
鮮血が噴き出す。だがイワレビコは退かない。
黒く強張った左腕の爪が、フツヌシの胸倉を掴み取った。
「捕まえたぞ……フツヌシ」
フツノミタマが命を削りながら振り下ろされる。
「……なるほど。確かに狂っとる」
フツヌシは自らの直刀を捨て、強烈な掌打をイワレビコの胸へ叩き込んだ。
イワレビコは黒焦げた残骸へ吹き飛ばされる。
黒剣の一撃は確かに届いた。だがフツヌシは無傷だった。ただ袖だけが鋭く裂け、泥の上に落ちていた。
「一太刀、おいの装束に触れたか。……誉めてやろう、死に損ない」
フツヌシは直刀を蹴り上げて回収し、東の大和本国から響く巨大な軍鼓の音に耳を傾けた。
「刻限か。……タケミカヅチ様がお呼びだ」
男は霧の向こうへ消えた。
「……ニニギ。生きてるか」
「ああ。……だが、次はねえぞ、イワレビコ。あいつ、まだ遊んでやがった」
イワレビコは黒剣を地面に突き立て、身体を支えた。
勝てなかった。刺客一人、仕留めることさえ叶わなかった。
だがその瞳に宿る黄金の炎は、以前よりも一層、暗く、深く燃え上がっていた。




