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倭王年代記  作者: 水前寺鯉太郎
神殺し戦記(上)

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第9話:帝国の殺戮機構

巻の二:神殺し戦記(上)

第9話:帝国の殺戮機構

 アメノカグヤマの直刀が、イワレビコの右腹を深く抉った。

 だが、イワレビコは止まらない。抉られた傷口から滴り落ちる鮮血を、彼は顧みることすらしなかった。

 筋肉の繊維がズタズタに断裂し、内出血で黒く強張った左腕が、フツノミタマの超重量を爆発的な力で引き絞る。

「狂っている……! なぜ、これほどの苦痛に耐え、己を壊してまで、あり得ぬ反逆に身を投じるのか!」

 カグヤマの絶叫。その高潔さを誇った黒漆の鉄面の奥の顔は、初めて「死」という冷徹な現実への恐怖によって醜く歪んでいた。

「……痛いか、大和の首領。……怖いか、人間が」

 イワレビコは血の泡を吐きながら、黒く強張った左腕でカグヤマの首を鷲掴みにした。

 超重量の鋼鉄大剣が彼の破壊された肉体と噛み合い、一つに繋がっていく。この瞬間、イワレビコは真に理解した。なぜ、不帰の森の奥で、数多の英雄が手にできなかったこの呪われた黒鉄が、自分にだけは抜けたのかを。

「俺が……誰よりも深く、貴様らを憎んだからだ。……道理を殺すと、あの日、俺が選んだからだ!」

 イワレビコの背後に、おぞましい幻視が立ち上る。タカクラジ、ナガハ、あるいはマカツで無残に焼かれた数多の民たちの無念。それらすべての物理的な質量が、漆黒の刃へと乗る。

「喰らえ」

 フツノミタマが一閃した。それは剣の一撃というより、大和の支配システムそのものを叩き潰す地上の咆哮だった。

 ――断。

 精緻な装飾掛甲が両断され、カグヤマの首が宙を舞い、生々しい真っ赤な人間の血が、マカツの灰の上に激しく降り注いだ。

 イワレビコが放った最後の一撃は、カグヤマの背後にあった軍船の艤装と高志の黒油の樽を完全に破壊し、巨大な軍船は物理的な大爆発を起こした。断末魔のような軋み音を立てて日向灘の深淵へと沈み始め、大和の包囲網は大混乱に陥った。

 大和の精鋭が、敗北した。人間一人の執念が、絶対の国家システムを打ち破った瞬間だった。

 アメノカグヤマの首を落とした夜、マカツには祝杯の音も、勝利の咆哮も響かなかった。そこにあるのは、炎上する大軍船の残骸が激しく火花を散らす海と、血に汚れた灰の荒野だけだった。

 イワレビコは、かつての高台の居館があった黒焦げた残骸の上に座り、フツノミタマを膝に置いていた。彼の左腕は、内出血で皮膚が黒く壊死し、強固な兵器の質感に変質している。呼吸をするたびに、肺の奥で過酷な肉体負荷の残痛が暴れる感覚があった。

 一族の長を殺す――その代償は、彼の寿命そのものを薪にして燃やしているに等しかった。

「殿、傷の手当てを……」

 オオクメが、震える手で布を差し出す。イワレビコは答えなかった。黄金色に変色した左目が、遠く、暗闇の先を見据えている。

「オオクメ。……聞こえるか」

「……何がでございますか?」

「風の音が変わった。……恐怖の匂いが、遠くから集まってきている」

 翌朝。マカツの廃墟には、奇妙な光景が広がっていた。

 近隣の邑、あるいは遥か遠方の集落から、ボロを纏った者たちが列をなして集まってきたのだ。彼らは大和を討った長を一目見ようと、泥にまみれた足をひきずり、マカツの柵門の残骸をくぐってきた。だが、その瞳に宿っているのは希望だけではなかった。

「あの方が、大和の総大将を殺した男か」

「怪物じゃないか。あの不吉な左腕を見ろ」

「あの方に付いていけば、もう強制徴収に応じなくて済むのか? それとも、あの方のせいで、俺たちの村まで大和の本隊に焼かれるのか?」

「……用件を言え」

 イワレビコの声が冷たく響く。群衆の中から、一人の男が這い出てきた。ひどく傷ついた鉄の大盾を抱えている。

「イワレビコ様よ。……我らの集落も、昨夜、大和の残党に焼かれました。アメノカグヤマという将軍が討たれたことへの連座として、無関係な村々が焦土にされたのです。我らは、あなたを恨みに来ました。……あるいは、あなたに簒奪されに来ました。もはや、この地上のどこにも逃げ場などない。大和に服属して飼い殺されるか、あなたと共に大王に牙を剥くか。二つに一つしか、道は残されていないのです」

 男が地面に額を擦り付ける。それに続き、数百、数千の民が、まるで黒い波のようにイワレビコの前に平伏した。

 それは、勝利の証ではなかった。イワレビコがカグヤマを殺したことで、世界は大和の支配という欺瞞の安定を失い、全滅か反逆かという極端な二択へと叩き落とされたのだ。

「……勝手にしろ」

 イワレビコは冷たく言い放ち、背を向けた。

「俺は、お前たちを守るとは約束せん。ただ、大和を殺す。その道中に、お前たちの死体が積み上がるだけだ」

「それでも構いません! 死を待つだけの羊でいるより、狼の影で牙を剥いて死ぬことを選びます!」

 背後で上がる、絶望と狂気が混ざり合った歓声。

 イワレビコは、フツノミタマの柄を強く握りしめた。彼は、一人の孤独な復讐者から、地上すべての絶望を背負わされた「災厄の旗印」へと変わったのだ。

 その頃、遥か大和盆地、王権の最奥。

 アメノカグヤマの戦死の報がもたらされ、大和の本国軍が静かに、しかし重厚に動き始めていた。

 整列する数万の鉄甲歩兵の前に、一人の大男が歩み出る。その圧倒的な質量は、大気そのものを緊張で震わせるほどの重圧を放っていた。

 大和王権最強の将軍、タケミカヅチ。

「……辺境の虫が一匹、大和の支配に火をつけたか」

 タケミカヅチは、西の海平線を見下ろし、冷徹に呟いた。その手に握られた、刀身の長さ、厚み、強度がすべて完全に「規格化」された、大陸直系の巨大な鍛造鋼剣が、鋭い鉄の輝きを放つ。

「清めではない。……マカツの血族を、この地上から完全に根絶やしにせよ」

 大和の本国軍による、数万規模の本格的な「焦土殲滅作戦」の火蓋が切られようとしていた。

 神殺しの誕生という噂は、甘美な希望などではなく、地上のすべてを消し去る「真の終末」の呼び水に過ぎなかったのだ――。

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