第9話「三度目の選択――愛か、正義か」
夜会の日が訪れた。
朝から、屋敷は慌ただしく動いていた。メイドたちがドレスを用意し、髪を整え、装飾品を選ぶ。全てが完璧に整えられていく。
だが、私の心は落ち着かなかった。
セルゲイからの手紙。『大切な話がある』という言葉が、頭から離れない。
午後、私は約束通り王立図書館へ向かった。
セルゲイは既に待っていてくれた。彼はいつもの公爵の装いではなく、質素な服を着ていた。まるで、身分を隠すかのように。
「リアナ様、来てくれてありがとう」
「セルゲイ様……大切な話とは?」
彼は少し躊躇うような表情を見せた。
「実は、あなたに謝らなければならないことがある」
彼は図書館の奥へと私を導いた。
人気のない書架の間、静かな空間。
そこで、セルゲイは深く息を吸った。
「私、最近ずっと違和感を感じていたんです。あなたと接する時、何か大切なものを忘れているような——」
「忘れている……」
「ええ。まるで、心に穴が開いているような感覚」
彼は苦しそうに眉をひそめた。
「それで、色々と調べました。古い日記を読み返し、使用人に昔のことを聞き、そして——」
彼は懐から、古びた小さな本を取り出した。
「これを見つけたんです」
それは、幼い頃のセルゲイの日記だった。
彼はページを開き、そこに書かれた文字を指差した。
『七歳の夏。リアナと図書館の庭園で遊んだ。
彼女は泣いていた。社交界で嫌なことがあったらしい。
僕は彼女に言った。「大きくなったら、君を守る騎士になる」
リアナは笑ってくれた。
その笑顔が、とても綺麗だった。
僕は、この約束を一生忘れない』
涙が、溢れてきた。
これが、失われた記憶。
セルゲイが私を愛した理由。
幼い日の、純粋な約束。
「でも、私はこの記憶がないんです」
セルゲイは悲しそうに言った。
「日記には書いてあるのに、思い出せない。まるで、誰かが私の記憶を奪ったかのように」
彼は私を見つめた。
「リアナ様、あなたは何か知っていますか?」
私は唇を噛んだ。
言うべきか。言わざるべきか。
でも、もう嘘はつけない。
「……私のせいです」
「え?」
「私が、あなたの記憶を奪ったんです」
私は震える声で告白した。
「契約の書という魔法の本を使って、過去をやり直した。その代償として、あなたの記憶が——」
セルゲイは呆然とした表情で私を見つめた。
「過去を……やり直した?」
「ええ。本当は、あなたが婚約を破棄する未来があった。私はそれが耐えられなくて、契約の書を使って過去を変えたんです。でも、その代償として——」
涙が止まらなかった。
「あなたの大切な記憶を、奪ってしまった」
沈黙が、二人の間に流れた。
セルゲイは何も言わず、ただ私を見つめている。
怒っているのだろうか。軽蔑しているのだろうか。
でも、彼の瞳には、ただ困惑だけがあった。
「つまり……私があなたを愛していたのは、その失われた記憶があったから?」
「おそらく……」
「そして今、私があなたに愛情を感じないのは——」
「記憶が失われたから……です」
私は力なく頷いた。
「ごめんなさい。私、自分勝手なことをしてしまった」
セルゲイは深く息を吸い、目を閉じた。
長い沈黙の後、彼は静かに口を開いた。
「でも、あなたは今日、国王陛下の前で真実を語った」
「え?」
「リオン侯爵の陰謀を暴き、お父上を救った。それは、契約の書の力ではなく、あなた自身の力だ」
彼は私の目を見つめた。
「私が失った記憶は、もう戻らないかもしれない。でも——」
彼は優しく微笑んだ。
「新しい記憶を作ることはできる」
「セルゲイ様……」
「リアナ様、いや、リアナ」
彼は初めて、私の名を呼び捨てにした。
「もう一度、最初から始めよう。幼い日の約束を果たすために」
その言葉に、胸が熱くなった。
「でも、あなたはもう、私を愛していない——」
「愛は、作ることができる」
彼は私の手を取った。
「記憶がなくても、今のあなたを見て、私は思う。この人と共に歩みたい、と」
涙が、止まらなかった。
嬉し涙だった。
セルゲイは、私を許してくれた。
そして、もう一度始めようと言ってくれた。
「ありがとう……ありがとう、セルゲイ様」
「今夜の夜会で、改めて婚約を発表しよう」
彼は私の手を握りしめた。
「今度は、義務ではなく、選択として」
その時、図書館の奥から拍手が聞こえた。
振り返ると、書士が立っていた。
「見事だ、リアナ・ヴァレンティア」
「書士……」
「あなたは、真実を選んだ。それが、最も勇気のいる選択だ」
書士は微笑んだ。
「そして、セルゲイ・アルノ。あなたも、見事だ。失われた記憶に囚われず、今を選んだ」
「あなたは……」
セルゲイが書士を見つめる。
「この図書館の番人です」
私が説明した。
「契約の書を管理している、特別な存在」
「なるほど……」
セルゲイは納得したように頷いた。
「だが、まだ試練は終わっていない」
書士が言った。
「今夜、もう一つの選択が待っている」
「もう一つの選択?」
「ああ。リオン侯爵は拘束されたが、彼の仲間はまだ動いている」
書士の表情が、険しくなった。
「彼らは今夜、夜会で何かを企んでいる。それを阻止しなければ、多くの人が傷つくだろう」
「何を企んでいるんですか?」
「それは分からない。だが、危険なことだけは確かだ」
書士は私たちを見つめた。
「あなたたちは、今夜、正義を選ぶか、それとも自分の幸せを選ぶか——その選択を迫られる」
「正義か、幸せか……」
私は戸惑った。
「どちらも選べないんですか?」
「選べるかもしれない。だが、リスクを伴う」
書士は静かに言った。
「夜会で動けば、あなたたちの婚約発表は台無しになるかもしれない。でも、動かなければ、誰かが犠牲になる」
セルゲイが私の肩に手を置いた。
「リアナ、あなたはどうしたい?」
「私は……」
私は自分の心に問いかけた。
幸せな夜会を過ごしたい。セルゲイと共に、新しい未来を歩み始めたい。
でも、誰かが傷つくのを見過ごすことはできない。
「正義を選びます」
私ははっきりと答えた。
「誰かを犠牲にして得る幸せなんて、本当の幸せじゃない」
セルゲイは微笑んだ。
「私も、同じ意見だ」
「では、行くとしよう」
書士が言った。
「夜会で、真実を暴く。そして、本当の悪を断ち切る」
私たちは図書館を後にした。
外は既に夕暮れ。夜会の時間が、迫っている。
これが、最後の戦いになるだろう。
そして、本当の未来が始まる——。




