第10話「暴走する魔書と奪われる記憶」
夜会の会場は、王宮の大広間だった。
豪華なシャンデリアが輝き、貴族たちが華やかな衣装で集まっている。音楽が流れ、ダンスが始まろうとしていた。
私とセルゲイは、会場の端で周囲を警戒していた。
「何かおかしなことがあれば、すぐに動きましょう」
セルゲイが小声で言った。
「ええ」
しばらくして、国王が登場した。
皆が一斉に礼をする。国王は満足げに頷き、挨拶を始めた。
「本日は、多くの者が集まってくれて嬉しく思う。今宵は——」
その時、突然会場の明かりが消えた。
悲鳴が上がる。
闇の中、誰かが叫んだ。
「国王陛下が!」
明かりが戻ると、玉座の前に黒いローブを纏った人物が立っていた。
だが、それは書士ではなかった。もっと邪悪な気配を放つ、別の存在。
「我が名はヴェルナー。リオン侯爵の配下にして、魔導師なり」
その男は、手に黒い本を持っていた。
契約の書だ。
「まさか……」
私は愕然とした。
「どうして、あなたが契約の書を!」
「ふふ、これはリオン様が密かに手に入れたものだ」
ヴェルナーは嘲笑った。
「本物の契約の書は図書館にあるが、これはその写本。力は劣るが、それでも十分に使える」
彼は本を開き、呪文を唱え始めた。
すると、会場にいる貴族たちが次々と倒れていった。記憶を奪われたかのように、呆然とした表情で立ち尽くす。
「やめなさい!」
私は叫んだが、ヴェルナーは止まらなかった。
「この書の力で、全ての者の記憶を操る。そして、国王陛下にリオン様を宰相に任命させる!」
セルゲイが剣を抜き、ヴェルナーに斬りかかった。
だが、魔法の障壁に阻まれる。
「無駄だ。この書の力は絶対だ!」
ヴェルナーは高笑いした。
その時、会場の奥から書士が現れた。
「ヴェルナー、その書を手放せ」
「書士! 貴様、何故ここに!」
「その写本は、不完全なものだ。暴走すれば、会場にいる全ての者の記憶が消え去る」
書士は冷静に言った。
「それでもいいのか? お前自身も、記憶を失うぞ」
「構わん! リオン様のためなら!」
ヴェルナーは再び呪文を唱え始めた。
私は咄嗟に動いた。
契約の書の力を知っているのは、この会場で私だけ。
ならば、私が止めなければ。
「待って!」
私はヴェルナーに駆け寄り、彼の手から本を奪おうとした。
だが、本は激しく光り始めた。
「まずい、暴走する!」
書士が叫んだ。
契約の書が宙に浮き、ページが勝手にめくれ始めた。
金色の文字が空中に飛び散り、会場全体を包み込んでいく。
記憶を食らう魔力の波。それが、全ての者を襲おうとしていた。
「皆、伏せて!」
セルゲイが叫んだが、時既に遅かった。
光の波が、会場を飲み込んだ。
私は目を閉じ、必死に耐えようとした。
だが、記憶が流れ出していくのを感じる。
幼い頃の思い出、父や母との時間、図書館で過ごした日々——。
全てが、光の中に溶けていく。
いや、待って。
これを失ったら、私は私でなくなってしまう。
セルゲイとの約束も、リュートとの出会いも、全部忘れてしまう。
それは嫌だ。
絶対に嫌だ!
「やめてえええええ!」
私は心の底から叫んだ。
すると、胸の奥から温かい光が溢れ出した。
それは契約の書の光とは違う、優しく、力強い光。
その光が、暴走する魔力を打ち消していく。
「これは……」
書士が驚いた表情を見せた。
「真書の加護か」
「真書?」
「ああ。お前は真書の間に入った。その時、真書がお前を認めたのだ。だから、今、真書の力がお前を守っている」
光が収束し、契約の書の写本が床に落ちた。
ヴェルナーは力尽きて倒れ、衛兵たちが彼を取り押さえた。
会場は静まり返っている。
貴族たちは呆然としているが、記憶を失った様子はない。間に合ったのだ。
「リアナ!」
セルゲイが駆け寄ってきた。
「大丈夫か?」
「ええ……なんとか」
私は彼の腕に支えられながら、立ち上がった。
全身から力が抜けている。真書の力を使ったせいだろうか。
国王が、ゆっくりと玉座から降りてきた。
「リアナ・ヴァレンティア。そなたは、この場にいた全ての者を救った」
「陛下……」
「礼を言う。そして——」
国王は厳かに宣言した。
「そなたに、王国騎士の称号を授ける」
どよめきが、会場を包んだ。
王国騎士。それは、貴族の娘には異例の栄誉だった。
「陛下、しかし私は……」
「遠慮するな。そなたは、それだけの功績を成し遂げた」
国王は微笑んだ。
「さあ、夜会を続けよう。今宵は祝いの夜だ」
音楽が再び流れ始めた。
貴族たちは徐々に騒動から立ち直り、再びダンスを始める。
セルゲイが私に手を差し伸べた。
「リアナ、踊ってくれますか?」
「でも、私、まだ……」
「大丈夫。僕が支えます」
彼の優しい笑顔に、私は頷いた。
ダンスフロアの中央で、私たちは踊り始めた。
セルゲイのリードは完璧で、疲れた私の身体を優しく導いてくれる。
「リアナ、さっきは本当に凄かった」
「凄かったというより、必死でした」
「でも、あなたは皆を救った。それは事実だ」
彼は私を見つめた。
「僕は改めて思った。あなたと共に人生を歩みたい、と」
その言葉に、胸が熱くなった。
「セルゲイ様……」
「いや、セルゲイでいい」
彼は微笑んだ。
「僕たちは、もう対等なんだ。王国騎士と公爵として」
「対等……」
その言葉が、嬉しかった。
もう、婚約者という義務の関係じゃない。
対等な、パートナーとして。
ダンスが終わり、私たちは会場の隅に移動した。
そこに、リュートが現れた。
「リアナ様、お見事でした」
「リュート! 来てくれていたの?」
「ええ。陰ながら見守っていました」
彼は優しく笑った。
「これで、全ての陰謀は終わりました。リオン侯爵も、その配下も、全て裁かれるでしょう」
「ええ……ようやく、平和が戻りますね」
書士も近づいてきた。
「リアナ・ヴァレンティア。お前は、よくやった」
「書士……真書の加護って、どういうことですか?」
「真書は、真実を求める者を守る。お前は、自分の利益ではなく、皆の安全を選んだ。だから、真書がお前に力を貸したのだ」
書士は満足げに頷いた。
「これで、お前と契約の書の縁は終わりだ」
「終わり……?」
「ああ。もう、お前は契約の書を使う必要はない」
書士は私の頭に手を置いた。
「お前は、自分の力で未来を切り拓くことができる。それを、今夜証明した」
その言葉に、涙が溢れそうになった。
「ありがとうございます……」
「礼には及ばない。これは、お前自身の功績だ」
書士は微笑み、闇の中に消えていった。
私は深く息を吸った。
全てが、終わったのだ。
陰謀も、危機も、全て。
そして——新しい未来が、始まろうとしている。
「リアナ」
セルゲイが私の手を取った。
「国王陛下が呼んでいる。婚約の発表をするそうだ」
「え、今からですか?」
「ええ。準備はいいですか?」
私は頷いた。
「はい。準備はできています」
国王の前に進み出ると、会場の注目が集まった。
国王は厳かに宣言した。
「本日、セルゲイ・アルノ公爵とリアナ・ヴァレンティア王国騎士の婚約を、正式に認める」
拍手が、会場を包んだ。
祝福の声が、四方から聞こえてくる。
セルゲイが私の手を握りしめた。
その手は温かく、力強かった。
「これから、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
私は微笑んだ。
もう、不安はなかった。
これから何が起ころうとも、私たちなら乗り越えられる。
そう、信じることができた。
その夜、夜会が終わり、私は一人、王宮のバルコニーに立っていた。
星空が美しい。
全てが、ようやく落ち着いた。
陰謀は暴かれ、父は復権し、婚約は守られた。
そして、セルゲイとの関係も、新しいものになった。
「ここにいたのか」
セルゲイが現れた。
「ええ。少し、一人になりたくて」
「そうか」
彼は隣に立ち、星空を見上げた。
「今日は、色々なことがあったね」
「本当に……」
しばらく沈黙が続いた。
だが、それは心地よい沈黙だった。
「リアナ」
「はい」
「僕の記憶は、もう戻らない。でも——」
セルゲイは私を見つめた。
「これから作る記憶が、きっとそれ以上に素晴らしいものになると信じている」
「私も、そう思います」
私は彼の手を取った。
「一緒に、新しい未来を作りましょう」
「ああ」
二人で手を繋ぎ、星空を見上げた。
未来は、まだ見えない。
でも、恐れはない。
私たちには、お互いがいる。
それだけで、十分だった。




