(14)誇り高き気負い
「───ねえ、芙三さん。ちょっと、芙三さん」
おば様の声にハッと顔を上げる。どうやら、物思いに耽っている間に何か進展があったらしい。
懇親会もそろそろ終わりだ。最後にダンスを踊ってお開きにしようというところか。気が付いたらその準備が進められていた。
(兄さま、仙お兄様……)
視線をさっと巡らせて兄の姿を探す。程なくして見付かった。一般の礼服と色とりどりのドレスの中、地味なカーキ色をした軍服姿の痩躯は嫌でも目立つ。
尾坂はいつもの無表情に戻っていて、黙って窓際の方に移動していた。腕を組んで壁に背を預け、どうやら壁の花と化すことを決めたようだ。
「っ……」
長い脚を優雅に運び、脚を組もうとして……動きが止まる。一瞬、表情をしかめた尾坂の視線の先には、芙三の姿があった。
さすがに妹の手前、脚を組むのは行儀が悪いと思ったのだろうか。何事も無かったように脚を戻して憮然と視線を上に向けている。
「踊らないのかしらね、彼」
芙三が尾坂のことをじっと見ていると、おば様の一人が話しかけてきた。
「さあ、どうでしょう」
「海軍では兵学校で舞踊を習うそうですが、陸軍ではどうなんざましょ」(※22)
「いやぁねぇ。陸軍なんて、馬術ばかりでしょう? 舞踊なんて、軟弱なものとして排除されてそうじゃない?」
いったい何がそんなに楽しいと言うのだろう。一旦落ち着いたと思っていたおば様方の陰口が再開した。
大方、何もかもが完璧な男にもどこかしら欠点があると意地の悪いことを思っているのだろう。そうやって、粗捜しをしてやりたいのが本音だろうか。
「仙、どうかしたのかな」
早くも壁の花と化した尾坂を目敏く見付けた侯爵が、また愛息子の我が儘が始まったとばかりに呆れ顔で小言を漏らす。
「今日は踊らないのかな」
「………別に、良いではないですか。父上、こうして壁の花となって、片隅で人々を眺めているのも」
「まだ少し疲れているのかい?」
そういえば、尾坂は広島からぶっ通しで汽車を乗り継いで東京まで来たのだった。移動だけでもほぼ丸一日かかるというのに、その上で陸軍内で会議があったとか。おそらく寝ている暇さえ無かったのだろう。
さすがに疲労が出てきてもおかしくはない。平然とした表情をしているが、もしかしたらあれは単なる痩せ我慢なのかも……と思い始め、段々と肝が冷えていくような気がした。
しかし芙三の思いとは裏腹に、尾坂はふっと口の端にいつもの皮肉げな表情を浮かべて一言。
「あいにく、私は気まぐれな質でしてね───本当に気に入った相手としか踊らない主義なのです」
どうやら彼なりに拘りがあって、今回は踊らないと決めたらしい。
本当に意外なことだったので、遠くから聞いていた芙三も目をパチリと瞬かせてしまった。尾坂が帰国後から派手な女遊びを繰り返していることは、遠く離れた東京まで流れてきていたというのに。
これはいったいどういうことなのだろう。噂上の人物像と現実で本人が口に出した台詞が噛み合わずに困惑する。
「おや、あれだけ上手だと広島で話題になっているのに」
「確かに広島でもダンスホールには通いますが……多くても月に二回ほどで、気分が乗らなければ踊らないこともありますよ。私が節操無しに女性を口説いているなんて、それはただの噂話ですのでどうかご安心を。父上、心配せずとも侯爵家の名を汚すような行動はせぬよう神経を使っておりますので」
これは本当の話なのだろう。ということは、派手な女遊びを繰り返しているという噂の真相は、単に誇張されて大きくなっただけの作り話に近いものだったということか。
(……よかった)
ほっと、胸を撫で下ろす。何度も想像しては身震いして、嫌だ嫌だと泣きわめきそうになるのを必死で堪えてきた。
彼が、他の女と一緒に歩く姿など。彼が、自分以外の女を相手にしているのなど。見たくもなかった、知りたくもなかった。
なのに事実として、彼は東京にまでその噂が広がるほどの女たらしとして有名になっていた。それにどれほど心を痛めたことか。
どんなに願っても、どんなに祈っても。彼と一生を添い遂げることなどできはしない。だって────自分達は血を分けた兄妹なのだから。
半分だけ。たったの半分だけ。彼と同じ血が流れている自身の身が、この上なく憎くてたまらなかった。
これが本当に同じ母親から産まれてきたというのなら、まだきっぱりと諦めがついただろう。だがその半分は、重い枷となって芙三を苦しめた。
半分だけの血の繋がりがあったお陰で彼と出会った。だが、その半分の血こそが自分と彼を引き裂く元凶となって牙を剥く。
「私をその辺りの俳優と同列に扱わないで頂きたいですね。誘われたら相手が誰だろうと喜んでその手を取ってほいほい付いていくほど、私は安っぽい存在ではありませんので」
自分のことを安売りする気は無いと、尾坂はきっぱり断言した。
湖の上を優雅に泳ぐ白鳥が、餌を片手に呼ばれたからと言って、なぜわざわざ岸まで泳いで取りに行ってやらねばならぬのだ。
お高く止まってつんと気高い湖の花であってこそ、白鳥は白鳥でいられるのだ。たとえその態度が高慢ちきだと謗られようとも。誰にも触れられずに高嶺の花であってこその白鳥だ。自分からその価値を下げるようなことをするなど、愚かにも程がある。
「何が私の琴線に触れるかと聞かれても、お答えできないとだけ言いましょう。それを言ってしまったら、誰もがそうなろうと外面を取り繕うと躍起になるではありませんか」
「ううん、そうか……少々残念だよ。お前が踊っているところを久し振りに見てみたかったんだがね」
侯爵は特に気にすることもなく、ただ困ったような表情をしているだけ。三男の我が儘は今に始まったことではないが、米国仕込みの最新の舞踊を身に付けた尾坂が、白鳥よろしく優雅に踊る様をじっくり観賞したかったのだろう。
しかし外野としては、額面通りに聞き入れられるわけがない。まるで鬼の首を取ったかのように嬉々としたざわめきが走る。
なんだ、踊らないのか。と落胆したかのように、しかし隠しきれない悪意が滲んだ声が漏れる。
「ああ、ほら。やっぱり踊れないのね。彼」
「そうじゃないかと思っていたのよ。お勉強ばっかで頭でっかちになって。いくら綺麗なお顔をしていて頭も良くても、教養のひとつも身に付いていないなんて………ねぇ?」
「庶子とはいえ、九条院家のご子息としてどうなのかしら。三十を手前にしても舞踊のひとつも踊れないなんて」
「彼、たしかまだ独身でいらしたわよね。やっぱり、いくら軍が薄給だからと言って、この歳まで独身なんておかしいと思ったのよ」
「やっぱり人は見た目じゃなくて中身ね、中身」
「いいえ、奥様。いくら人間中身が大事だとは言いましても………自分の娘に嫁がせるのなら、やっぱり同じ純血の日本人ですわよ」
「…………」
負け犬の遠吠え───という言葉が脳裏に浮かんだ。
ムキになってみっともなく負け惜しみを叫ぶくらいなら、いっそ素直に敗北をお認めになったらよろしいのに。
と、芙三は考えながら、おば様方を尻目にゆっくりと歩き始めた。
ヒールが毛足の長い絨毯に優しく包まれ、音は出ない。だがしずしずと、まるで丹頂鶴を思わせるような優雅な動きで歩を進める貴婦人の姿は充分な存在感を放っていた。
芙三に気付いた人々が一斉に場所を開けて、まるで人垣で道が作られたような状態になる。その真ん中を当然のように進んで、芙三は尾坂の目の前までやって来た。
「ごきげんよう、仙お兄様」
にっこりと微笑んで、小さく会釈。我ながら白々しいと思いつつ、芙三は尾坂の瑠璃色の瞳をまっすぐ見つめる。
「………レディ、何かご用で?」
「もしよろしければ、わたくしと一曲踊ってくださらない?」
驚愕の声が、さざ波のように広がっていく。
尾坂の実質的な舞踊の参加拒否を聞いてなお、あえてとばかりに芙三はまっすぐ舞踊の相手を申し出てきた。これはいったどういうことだろう。
尾坂にとっても意外なことだったらしい。ゆっくりと何度か目を瞬かせて、そして口を開く。
「なぜ私を選ばれたのでしょう? 理由を聞いてもよろしいですか」
「簡単なことでしてよ。だって……」
そこで一旦区切って、一瞬だけ溜め込む。
「───わたくしと貴方様は、兄妹ですから」
これ以外になんの理由がある、とばかりに芙三は堂々と言い放った。
自分で言っておいて、じくりと胸が痛んだが、それをおくびにも出さずにつんと前を向いて懸命に立ち続ける。泣きそうになったが、涙が流れることだけはこらえた。
大丈夫だ、なんてことはない。あの日からもう、我慢することなんて慣れてしまったから。
「………そうですか」
ふう、とため息。失敗したのだろうか。最悪の未来がまぶたの裏に見えて、思わず身構えた。
「でしたら仕方がありませんね」
不意に、自身の指に男の固く大きな掌が添えられた。
えっ、と声を上げて前を見ると、そこには芙三の手を取って、手袋に覆われた長く優美な指先に静かに口付けを落とす尾坂の姿が。
「私のような者で良ければいくらでも。ですが……一曲だけ、ですよ。レディ」
それ以上はいらぬ嫉妬を買ってしまうでしょうからね、と美貌の青年将校は囁いた。
エスコートされるがまま中央に出ていく。黒の礼服の中で、やはり尾坂のカーキ色の軍服は酷く目立っていた。それに加えてやや橙色かかった照明の元だと、その色白の美貌が際立って見える。
陸軍という組織の性質上、訓練で体幹をしっかり鍛えているため、尾坂は歩いてもまったく体の芯がぶれない。足の爪先に至るまでしっかりと教育の行き届いた優雅な動きは、白鳥の羽ばたきを思わせるほど美しいものだ。
隣を歩いている芙三が纏っているイブニングドレスは、落ち着いた瑠璃色の生地を使っていながら、所々に淡く光る真珠のビーズがさりげなく散りばめられているというもの。お陰で地味なカーキ色と対のようになって、互いの色彩が持つ欠点を調和させる。
さて、ここからどうなるだろうか。観衆は固唾を飲んで見守った。
九条院家の三男と長女の兄妹ペアの他にも何組かが舞台上に上がったが、やはり人々の視線を一番集めていたのはこの兄妹。
芙三は何度か公の場に出て社交界の花となって踊ることはあったが、尾坂が日本でこのような社交界の場に出てくるのは初めてのことだからだ。米国では何度か誘われてそういった場に出ることがあったらしいが、その時の様子を知っている者はここには皆無。
九条院家の三男が公の場で踊る社交舞踊は、これが最初で最後になるだろう。妙な緊張が走ったのも納得がいく。
観衆のほとんどが、尾坂が盛大に失敗して恥をかくほうに賭けていた。なんとも意地の悪い話なのだが先程まで散々彼の悪口を叩いていた手前、なんとしてでも粗を見付け出したいのだろう。自分達の面子のために。
しかしそんな黒々とした悪意に満ちた視線を一身に受けても、尾坂は涼しげな表情をしている。
彼の心境としては「なぜわざわざその辺りの雑草ごときが奏でる雑音を気にしていなければならないのだろう」というところか。この世のすべてを斜に見ているかのような態度が、余計に反感を買って悪意に繋がったようだ。
失敗しろ。それで恥をかいて、笑い者にしてやろう。そんな観衆の嫉妬と羨望が混ざったような悪意など気にも止めずに尾坂はスッと構える。
それを合図にしたかのように、指揮者が動く。
───曲が始まった瞬間、世界が一変した。
流れたのはその辺りにある一般人でも通えるような大衆向けのダンスホールで流れる曲ではない。正式な社交の場で踊られる、形式に添ったヴェニーズ・ワルツのための曲だ。しかも当然、レコードなどではなく生演奏。
トン、と上質な革で丹念に作り上げられた長靴が軽やかに動き出した。
くるり、くるり。と、まるで蝶が舞うように、ドレスの裾が優雅に膨らむ。その感覚に、ようやく踊り出したのだと気付いた芙三がハッとしたときには、もう既に目の前の美しい青年がその場に作り出した世界の中に引きずり込まれた後だった。
(───上手い)
何度も何度も、夫やその他の男性と踊ってきて、それなりの場数を踏んでいるはずである芙三でさえも思わず息を飲んだ。
まるで湖面をスゥッと滑っていくような感覚。自分自身も白鳥に姿を変えられたようで、急激に現実世界が遠退いた。
上手とか下手とか、これはもうそんな領域ではない。操られるだけの人形のように、勝手に手足が動いていく。
またステップ。そこでターン。
急拵えで作られた舞台だから、決して広くはない。だが、他のペアとぶつかりそうになる心配など微塵も感じさせなかった。
芙三を誘導している尾坂が、この空間で動くものすべての行き先を把握し、どのように動けば良いのか計算しながら踊っているのだろう。傍目から見ていたら、なんとも不思議なことに人々が勝手に尾坂と芙三のペアを避けているように見える。
社交舞踊というよりは、むしろバレエを踊っているようだ。例えるのならそう、二人でひとつの主人公を演じるような。そんな一体感。
最初から対になる存在として産み出された。そんな錯覚さえ抱くほどの、無駄というものを極限まで切り落として作り上げた究極の踊り。
白鳥の湖───尾坂が作り上げたその世界を目の当たりにした誰もが、そんな感想を抱きながら踊る白鳥二羽に釘付けとなる。
「、」
ゾッとするほど完璧な、それでいて大人の男としての苦みばしった色気を醸し出す美しい顔を見上げて息を詰まらせる。
相手の鼓動でさえも聞こえてきそうな距離に立って初めて気が付いた。のっぺりとした無表情をその美しい顔に貼り付けた尾坂の瑠璃色の瞳の奥。
そこで確かに煌めいていたのだ。腹の中で蜷局を巻きながら、烈火のごとく燃え盛る激しい感情が。
(ああ……)
ゾクッと背筋が粟立った。人間味の薄い完璧な美貌の奥深くに宿る、熱く煮えたぎる感情のうねり。
人形のような彼の中に宿った激しい感情は、その一端に触れた芙三の心に黒いシミを残していく。
───嫉妬、だろう。
己の身さえも省みずに走り続ける狼のような激しい感情を向けられている相手は、芙三ではない。そう、彼女ではないのだ。
それを感じ取ってしまい、芙三は絶望にうちひしがれた。どうやっても、自分は彼の中の「一番」にはなれないのだと……
(誰なの? いったい誰ですの、お兄様。完璧でしたはずの貴方の心をそんなにも掻き乱し、そして捕らえて離さない存在は───)
「………レディ、あまり良い臭いでは無いでしょう」
窘めるような声音で、音量を絞られかけられた声にハッと我に返った。
柑橘系のにおいが鼻を掠める。尾坂が着けている香水のにおいだろう。軍人なのに香水を着けるのかと疑問に思うだろうが、男性でもモダンボーイと呼ばれる種類の青年の中には香水を嗜んでいる者もいるそうだし別に不自然では無いだろう。流行の最先端を競い合うように瀟洒な格好をしたがる青年将校の仲間入りを果たしているというのなら、モダンボーイと言っても差し支えが無いだろうから。(※23)
モダンボーイの中には爪化粧もする者もいるらしいが、さすがに彼もそこまではしていないだろう。歩兵や騎兵ならともかく、技術が売りの工兵に所属しているというのなら、指先は大切なものだがよく使う。お洒落をしてもすぐに剥がれたり汚れたりするし、それでなくても仕事に影響が出るだろうから。
「……なんのことでしょう?」
「機械油と土……あと、鉄の臭いでしょうか。申し訳がない。なにせ当方は工兵で、しかも技術将校ですので。仕事柄、どうしてもこういう臭いが染み込んでしまうようです」
ご不愉快でしょう。と問いかけられたが小さく首を横に振ってそれを否定する。
確かに嗅ぎ慣れない臭いには困惑するが、それでもこれが想いを寄せる兄のにおいなのだと思うと、いとおしさが込み上げてくるからだ。
「………あちら、見えますか」
視界がぐるりと回って、そしてピタッと止まった。
一瞬だったが、兄が何を示したのか判って、芙三はあっと声を上げる。
尾坂が示した視線の先にいたのは、先程まで話をしていた親戚のおば様達。全員、白鳥のように優雅に踊る尾坂と芙三を見ながら随分と悔しそうに歯噛みしている。
当たり前だろう。まさか顔だけで教養など無いと見下して散々こき下ろしていた相手が、こんなにも美しく完璧な舞を披露してきたのだ。こんなの、一朝一夕で身に付くようなものではない。
逃した魚はあまりにも大きすぎた。こんなに美しく踊る艶麗な青年の心を射止めて一緒に踊ることができたのならば、これ以上に優越感に浸れることなどなかったのに。という所か。
「これで貴女も満足でしょう」
密かに溜飲を下げた芙三に向かって、尾坂は何でもないというように声をかける。
……たぶん、尾坂自身は自分のことを悪く言われるのを何とも思っていない。だが、他の者──特に芙三が黙っていられるかと言われるとそうではないことを知っている。昔から、芙三は尾坂のことになるとムキになるから。
芙三の中で燻っていたモヤモヤした気分を、その原因となった者達を尾坂自身が盛大に袖にしたことで払拭したのだから、もう満足しただろう。という意味だった。
もちろん、溜飲は下げられた。長年、チクチクと本人たちも意識していない嫌味を言われ続けた身の上としては、今回の尾坂の見事な手腕については拍手を送ってやりたいくらいだ。
相手を自分と同じ土俵にさえ上げてやらずに、見向きもしないであしらった。
気高くプライドの高い彼らしい対応だ。自らの価値を決して下げずにやり返した。
「あ……」
タンっ、と軽く音を立てて動きが止まった。一瞬で現実に引き戻される。
一曲目が終わったのだ。一拍間を置いて盛大な拍手が巻き起こる。
「………一曲だけ、という約束でしたね」
今までの燃え盛る炎のような激しさはなんだったというのだろうか。尾坂は本当にあっさりと、悔しさ混じりの称賛の拍手の中でさえも超然とした態度で芙三を連れていく。
一曲だけ、という約束だったのだ。そしてその一曲は終わった。ならばもう夢の時間は終わり。
まさしく、泡沫の夢のような時間……観衆の中に戻ったら、尾坂はあっさりと芙三の手を離して壁の花に戻ってしまった。
「………」
「まだ何か?」
「ねえ、お兄様……」
───貴方は誰かと一夜を共にしたことはありますか?
……それはどうしても聞きたいことだった。彼と一夜を共にした相手はいるのだろうか。いないのだろうか。
彼だって妙齢の男性だ。そういう経験のひとつや二つ、あるに決まっている。
「当たり前でしょう。私も三十年近く生きているのですから、|それなりに経験は積んでおります《・・・・・・・・・・・・・・・》」
その一言は、芙三の心に思いの外深々と刺さった。結果なんて判りきっていたはずなのに、どうしてこんなにも胸が痛むのだろう。
「もっとも、今は特定の恋人を作っておりませんけどね」
「……今は、ということは。過去にはいた、ということですね………?」
「…………」
尾坂はそれには何も答えなかった。
※22:日本海軍では紳士教育の一環として、兵学校でフルコースのマナーやダンスなども習います。これは海軍は性質上、海外に行くことが多かったことや、海軍設立の際にお手本にした英国海軍は士官が貴族だったことなどが関係しているそうです。
※23:青年将校文化。当時、陸軍の青年将校の間では軍服をお洒落に仕立てて競い合うことが流行っていました。将校の軍服はすべて(拳銃や軍刀に至るまで)オーダーメイドで自費購入だったので、ある程度融通が利いたそうです。チェッコ式軍帽という、規定よりも高めに仕立てられた軍帽などもこの文化が産み出したものです。もちろん、軍服にも規則があるので青年将校たちはその規定の中でお洒落を楽しんでいました。
有名な方ですとニニ六事件の決起将校のひとり、中橋基明(なかはし-もとあき)歩兵中尉は雨套の裏地を全て緋色にしていたそうです。(通常は表の色と同じ)この中橋中尉の緋色のマントが、「妖怪赤マント」の元ネタだとかいう話もあったり。
余談ですがこの軍服の改造、陸軍では流行りましたが海軍ではあまり流行らなかったそうです。




