(15)穏やかさの内にある美
尾坂の後ろ姿を見送りながら、芙三はそっと目を伏せた。
─────当たり前でしょう。私も三十年近く生きているのですから、それなりに経験は積んでおります
その一言は鋭い棘となって彼女を苦しめる。
判っているはずだった。彼だって男、それも軍人だ。付き合いで料亭にだって行くだろうし、芸者を相手に遊ぶことだってある。それに、ただでさえ全てにおいて完璧な上に、二十八という男盛りの年齢だ。
あの無垢な幼さと淡い清らかさが上手く調和して、性別さえも超越した彫刻のような無機質さは薄れてしまった。
代わりとばかりに彼の美貌に華を添えているのは、幾度となくその手の経験を積んできた者しか出せない、苦みばしった大人の男の色香というもの。
線の細い華奢な体躯に赤い唇という女性的な記号は、男装の麗人と間違えられることもしばしばある。が、それでも、ふとした瞬間に垣間見える仕草で男なのだと納得させられた。
手袋と袖の隙間から見える手首が骨太でがっちりしているのだとか、わざと高く誂えているせいで滅多に見ることの叶わない喉元には男性にしか持ち得ない隆起があるのだとか。
それらは二次成長を終えてなお、性差による特徴がハッキリと出なかった彼にとって貴重な、子供の時には無かった大人の象徴だろう。
目に見える特徴がそのように薄く曖昧なためか、経験によって得られる艶やかで淫靡なにおいは甘く薫り立って鼻腔を刺激する。
一度や二度の経験ではこんな濃厚な色っぽさは出せない。そんなの、聞かなくったって良く判った。
どれだけの数の人と肌を重ねたのだろう。どこで誰と、何度夜を共に過ごしたのだろう。
その中には一夜限りの関係もあれば、何年にも渡って蜜月を過ごした相手もいるのだろう。
─────もっとも、今は特定の恋人を作っておりませんけどね
その言葉は確かに救いだったが、同時に呪いでもあった。今はいないが、過去にはそういうことをする恋人がいたのだと。あっさり白状されたようなものだったから。
(わたくしは、どう頑張ってもその中の一人にはなれませんのに)
視線を足元に向けて、伏し目がちになる。まだ新しい靴が照明の光を受けてもの悲しげに光っていた。
若奥様はお化粧をしていても少女のように瑞々しい。なんて、専属の使用人からはよく言われる。とてもじゃないが結婚しているとは思えないと言われることも多々あった。夫である海が隣にいないときなどは、芙三が既婚で二十代だとは知らない者から十代の令嬢と勘違いされて口説かれそうになった時もあったほどである。
だから、今日はこのヒールをはいて来た。少し背伸びして、年端もいかぬ少女が大人っぽさを頑張って身に纏うように。
彼についての情報は、事前に探偵に依頼して調べていた。今日のためだけに、この高さのヒールを選んでわざわざ購入したのだ。長身である彼と背の高さを合わせて、その細首に自分の両手をそっと回しやすいように。
目一杯背伸びをして、指先で彼の生糸のような髪をそっと掻き分けて、そして十四年に渡って自身の身の内で燻り続けた思いの丈をその耳元で囁くために───
「───もう踊らないのかい?」
不意に聞こえた父親の声で、芙三は思考の海からハッと引き戻された。
見れば、既に壁の華と化していた尾坂のすぐ目の前に自分達の父親である侯爵が立っている。いつの間に来たのだろう。まったく気付かなかった。
「……言ったでしょう、父上。私は、自分が本当に気に入った相手としか踊らない主義だと」
「おや、お前の眼鏡に叶う者はいなかったということかい」
「ええ、そうです」
「ふむ、お前も中々の偏食だねぇ……」
「当たり前でしょう。私がどうしてもその隣に立ちたいと思える者など、早々おりませんよ。私は誰にでも容易く手折られる雑草になった覚えなどありませんので。もっとも────私に対して後ろめたい感情など一寸も持たず、なおかつ私の隣に立っても恥をかかないだろうという慢心に満ちた楽天的な思考をお持ちの方なら、話は別ですが」
と思いきや、いきなりそんな嫌味を盛大に放ってきてくれた。
今のは侯爵だけではなく、会場にいた他の参加者たちにも向けられた言葉だ。視線は侯爵の方にあったため、一見すればそうとは思えなかっただろうが。
だがしかし、これでもかと心当たりのある者達はギクリと身を強張らせて表情をひきつらせる他無かった。
どうやら彼らが散々好き勝手叩いていた陰口は、尾坂の耳にしっかり入っていたらしい。聞こえていないだろうと慢心していた心に、冷や水どころか堅い氷を丸ごとぶつけられたようなものだ。
悪口を囁きあって嘲笑しながら自尊心を満たしていたことを棚に上げ、なんとかこの美しい青年にお近づきになろうとしていた者達が一気に意気消沈となって沈黙する。
居心地の悪さを感じたのか、そわそわと落ち着かずに視線を泳がせる彼らの姿を見た芙三はふっと口の端に微笑みを浮かべてすぐに消す。
これで、長年溜め込んできた嫌な感情は払拭された。とても晴れやかな気分だ。
しかし、その清々しさとは別で……ひどく、虚しい気持ちに教われる。
「それでしたら、父上のお相手をしても?」
「それは駄目。だって、踊っているお前を見れなくなるじゃないか。私はお前が踊っている所をもっとよく見たいんだ」
「ああ、父上。それでしたら自分が相手をしましょう」
まるで子供みたいな駄々を捏ねた父親を遮るかのように現れたのは長兄の樟一郎だ。
まさか尾坂が女役もできるとは思っていなかったが、あの表情だとできるらしい。
樟一郎がわざとらしい爽やかな笑みを顔面に張り付けながら名乗り出た。
「ちょっとだけ趣向を変えて、な? いいだろう、別に」
「っ!」
爽やかそうな微笑みから一転。樟一郎の口の端が、にや、と吊り上がる。そして、なぜか尾坂の太腿あたりをそっと意味深になぞりあげた。
途端に尾坂が表情を歪ませる。しかしそれも一瞬だけ。良く彼を知らない者では気付くことさえできないだろうという、ほんの僅かな変化だった。次の瞬間には、尾坂はいつもの皮肉げな薄ら笑いを浮かべて樟一郎を見ている。
「………………!」
その様子を見ていた胡二郎が、何かに気付いたように表情を変えた。
「……ええ、そうですね。兄上、私などで良ければ」
樟一郎の手を取って、尾坂が再び舞台に戻る。今の一瞬の変化はいったいなんだったのだろうか。
次はがらりと雰囲気を変えてタンゴになるらしい。そしてこの曲では、胡二郎も婚約者と共に舞台に上がることになった。
侯爵家の三兄弟が揃っている図はこれが初めてだろう。なぜか三男の尾坂が女役として樟一郎の相手をしていたが。
(貴方のお相手になった方々は、どのような方だったのでしょうか)
たとえ一時だけでも、彼の恋人になれた者たちはどのような人生を歩んできたのだろうか。
タンゴの激しいステップでも決して気後れせず、白鳥の持つ優雅さはそのまま見事な躍りを披露する尾坂を見やる。
たとえ一夜でも、彼の恋人となった者たちは幸せだっただろうか。あんな美しく、完璧な青年を一夜だけでも独占できたのだ。幸せに決まっている。
そうでなければ許せない。自分はどれだけ望んでも、思いを添い遂げることはできないのに。と、芙三は密かに歯噛みした。
(何にも執着しない、気高い人。どこまでも孤高を貫く、誇り高い人……)
貴方は全てが完璧だった。なのに、どこから彼は狂ってしまったのだろう。
共にヴェニーズ・ワルツを踊った際に垣間見た、あの燃え盛る炎のような激しい感情。人形のように人間味の薄かった彼が、剥き出しの感情のままに追い求める存在。
彼から執着されているその誰かのことが、どうしようもなく羨ましかった。なぜ、自分はその執着の先にいないのだろう。
もう考えただけでも辛い。
───いったい、いつから自分達の関係は拗れてしまったのだろう。
そこまで考えて、不意に何かの記憶が脳裏に浮上してきた。
ああ、と思い出す。それは、彼が───尾坂が数え十三の時の話。彼が初めて府立一中に登校する日に起きた、ある事件のことだった。




