(13)飾り付けられた自我─追想、大正三年七月─
─────大正三年七月。
「こらっ、芙三! またお前は勝手に稽古を休んで!」
少しだけ赤く染まった七月の空の下、侯爵家の敷地をかけていく二つの影があった。
夏の盛りを迎えつつある今の時期は、日を追っていくごとに徐々に昼の時間の方が長くなっていく。二人が学習院から帰ってきても、十分に外は明るかった。
「待てって、おい! 聞いてるのか!」
「胡二郎お兄様も付いて来て、仙お兄様を説得してくださいまし!」
「はぁ!? 説得って、何の話だ説明しろよ!」
芙三は侯爵家の敷地を片隅にひっそり佇む離れを囲んだ一角を目指して走っていた。いったいどうしたというのだろう。
「今日! 学習院でお友達に仙お兄様のお話をしたのです!」
「それとこれと何の関係があるんだ! こらっ、待てっ!」
彼女が目指しているのは、林の小道を抜けた先にいある薔薇と椿の箱庭。そこに住んでいる胡二郎の双子の弟、仙の元だ。
雪が降る頃に三人が出会ってから既に一年と五ヶ月。その間、何度も何度も両親の目を盗んでは彼に会いに行ったので、この道もすっかり通い慣れてしまった。
今は椿ではなく大輪の薔薇が咲き誇っている庭園の中、ひっそりと佇む白亜の壁が目映い離れ座敷。そこがあの少年が入れられている鳥籠である。
彼はそこから一歩も外に出られない。出ないのではなく出られないのだ。なぜかというと、それが父親である九条院侯爵の方針だからだそうだ。家からは一歩も出ることは許されてはいないため、当然ながら学習院にも通っていなかった。その代わり、仙の元には九条院侯爵が手配した一流の講師がやって来て彼に知識を授けていく。
時には侯爵が直々に教鞭を握ることもあるらしく、仙はこの離れから一歩も外に出ずとも全てが事足りる生活を送っていた。彼自身もとてもじゃないが胡二郎と同い年とは思えぬほど明晰な頭脳を持っているため、与えられた知識をまるで砂に水が染みていくかのような勢いで自分の物にしている。
方や侯爵の寵児という芸術作品としての完成を目指して日々中身を注がれている仙と、方や既に学習院一の問題児として厳しい眼差しを向けられ教員の悩みの種になっている芙三。そして優秀な長兄のお陰で何となくオマケ扱いされる胡二郎。
天才と問題児と凡人という、何もかもが違う侯爵家の真ん中三兄妹。この三人が白亜の家の窓際に集う揃うこの一瞬だけは、芙三のお転婆も成りを潜めてくれた。
芙三が突発的な行動を取っては周囲の者を振り回すのはいつものことだが、仙の前ではなぜか勝手が違う。というのも仙の前では芙三は、普段のじゃじゃ馬娘っぷりが嘘のように大人しいのだ。
西洋の御伽噺に出てくる王子様のような見た目に違わず、幼いわりには非常に大人びていて紳士的な仙に良い顔を見せたいのか。それとも年頃の少女らしい人見知りの発動によるよそよそしさなのか。いいや、おそらく前者なのだろうと、胡二郎は当たりを付けていた。
なにせ仙は兎に角美しい。その辺りの俳優など目ではないくらいだ。まだ幼いながらも端正に整った顔立ちはどこか外国の風情を感じさせ、生糸のような手触りの髪は見事な烏の濡羽色。白人とも黄色人種とも言い難い色白の肌は陶磁器のよう。
そして何より目を引くのは、その青灰色の瞳だ。
本来ならば露西亜を始めとした北方の国々でしか見ることのできない灰色の瞳を嵌め込まれ、仙はこの世に生を受けた。
日本人としてはかなり異質な存在だが、それでもその美貌が損なわれることはない。
二次成長直前の、男性とも女性とも言えない肉体も相まってか、西洋の宗教画に出てくる天使のごとき存在。それが仙という少年だった。
いくら同年代の異性とは日常で触れ合う機会が皆無とはいえ、それでも彼は大人からも浮いている。
そういう所がこのじゃじゃ馬が夢中になる要因なのだろうか。今、芙三が最も熱を上げているのが、つい最近存在を知った三番目の兄の仙である。
「あーっ! あーっ!!もう、行っちゃった!」
林を抜けると、そこはまるで別世界。左右対称に作り込まれた薔薇の垣根の向こうに見える、シミひとつ存在しない白亜の洋館。
咲き誇る大輪の薔薇は赤と白ではっきりと組分けされていて、無秩序に見えるが見ていて気持ちが良いくらいに整然と並んでいる。
そこを真っ直ぐ抜けると、開け放たれた窓辺に彼が立っているのがハッキリ見えた。
仙自身も近付いてくる気配に気付いたのか、ふいと顔を上げて窓の外を見る。
「こんばんは、お嬢さん。そのように慌ててどうされたのですか?」
仙は突然の訪問者にも嫌な顔ひとつせず、優しく微笑みながらやんわりと挨拶をしてくる。
洋琴の練習でもしようとしていたのだろうか。仙は手元にあった楽譜を、そっと洋琴の楽譜立てに置いてから窓辺に近寄り膝を着く。
仙は実の妹である芙三のことも、子供扱いせずに一人前の淑女として扱ってくる。
「こんばんは、ごきげんよう。お兄様」
「芙三!」
「早速ですが仙お兄様、わたくしからのお願いです」
「私にお願いですか。いったいどのようなご用件でしょうか。私などで叶えられることならば、貴女の望みを叶えましょう」
息も荒くへたりこんだ芙三に手を差しのべつつ、突然のことにさえも冷静に対処していく姿には感心を覚える。
頭ごなしに否定したりせず、三番目の兄はいつだって彼女の話をじっと聞いてくれた。
「わたくしのお願い事はただひとつ。お兄様、学習院ご入学してくださいまし」
まさかお願い事とはそんなことだったのか。追いかけてきて息を整えていた胡二郎は、ずるっとずっこけそうになったのを何とか押し止めて肩を落とす。いったいこの妹は何を言い出すんだ。
「………学習院?」
「ええ、そうです。お兄様、学校です。こんな所に引きこもっていないで、学習院に通いましょう?ね?」
「がっこう………」
「芙三!いきなり何を言い出すんだ、お前は!」
「だって……」
きゅっと唇を噛み締めて、芙三は今日あった出来事をポツポツと話し始めた。
「今日……晶子さん達とお話ししていてて………お兄様のお話になったの。そしたら皆さん、コロコロ笑いながら『芙三さんの三番目のお兄様って、不細工で有名なあの?』と、言われましたの」
「はい?」
「それで……わたくしは『そんなことない』と反論致しました。ですが皆さん、信じてくれなくて………お兄様が学習院に通われていないのが何よりの証拠だと……ですから………」
「……つまりお前、仙のことを友達に自慢したいだけか」
もう呆れ返ってものも言えない。この我が儘娘……と、掌で顔を覆って天を仰ぎながら胡二郎は恨み節を残した。
「お前は……本当に、いい加減にしとけ………そんな下らない理由で、父上が仙を学習院に通わせてくれる訳がないだろ」
「何でもかんでも無理と決め付けないでくださいまし!」
「落ち着いて。一流の貴婦人は、そのように声を荒らげたりしませんよ」
諭すように落ち着いた一言で、芙三はあっさり黙りこくった。さすがに納得いかなかったのか、ぶつぶつと文句を言いながらだったが。
「つまり貴女は、私の名誉を守りたいと仰っているのですね」
「ええ、そうです」
「であるならば、貴女はとても思いやりのある優しい方だ。貴女のような妹がいてくれて、私はとても嬉しく思いますよ」
もちろん、そんな彼女を放っておかずに追いかけてきてくれた胡二郎も。
とんだ殺し文句だ。これでは何か罵ろうと思っていた気力さえも奪われて、もうどうにでもなれと思ってしまう。これが仙の恐ろしいところだな、と胡二郎は一人静かに考察する。
「それで、私がその……学習院? に通えば貴女は満足するのでしょうか」
「仙、あのな……芙三の我が儘に一々付き合っていたら身が持たなくなるぞ。そもそも、今はもう七月じゃないか」
「そうですが、それが何か?」
「お前は知らないだろうから一応説明しておくんだけど、学習院にはある種の『区切り』みたいなのがあってな……僕が今通っているのが初等科。華族の男児が通う場所だから、もしもお前が入学するのならこっちな。でも、初等科は六年までだから今年で修了なんだよ」
だから今更入学しても、中途半端な所での編入になるからその後が色々と大変だ。と、胡二郎はこんこんと諭しにかかる。
「胡二郎お兄様、それでしたら来年に入ればよろしいだけでしてよ。そうよ、それが良いですわ!ここから出て学校に行きましょう、仙お兄様!」
「ちょっ……だから、ちょっと黙ってて………」
「……そうですか」
芙三がまた邪魔をしてきたが、それでも仙は目を円くして頷くだけだった。
「貴女がそこまでおっしゃるのでしたら、学校という所はとても良い所なのですね」
「うう……そうおっしゃられると少し心苦しいですわ………」
「?」
「あ、気にしなくて良いからな」
言い淀んだ芙三を見た胡二郎が、そっと助け船を出してやる。
問題児として教員から敵視されつつある芙三にとっては、学習院はつまらないのだろう。だが、それを言ってしまったらせっかく仙をその気にさせたというのに、全てがおじゃんとなってしまう。
「そうですか……では、父上にお願いしてみます。ちょうど、来月は誕生日ですから……私が自分の誕生日に願い事を言えば、さすがに父上も無碍にはできないでしょう」
にこり、と柔らかく微笑んで仙はその算段を立て始めた。図らずも発起人となった芙三はパッと顔を輝かせながら飛び上がる勢いで喜びを露にする。
「本当に!お兄様、それが叶えられれば、来年からお兄様が学習院に通われるのですね!」
「ええ、父上がお許しになれば」
「やったぁ!お兄様が来る、お兄様が学習院にいらっしゃいますわ!」
いや、そもそも通えたとしても、学習院は男女別々で授業を受けるから意味は無いと思うのだが……と思う胡二郎であったがそれを口には出してやらなかった。
優しさなのか、それとも単に面倒だっただけか……おそらく後者だろう。
「それよりも、レディ。貴女、これから書道のお稽古があるのではありませんでしたか?」
「え…………ぁ」
有頂天になっていた矢先、冷や水を浴びせられた芙三は盛大に固まった。そうだ。つい頭に血が上ったせいですっかり忘れてしまっていたが、今日は書道の稽古がある日だったのだ。
「厳しいことで有名な先生でしたでしょう。貴女がこの間愚痴を漏らしていらっしゃったではありませんか。人を待たせるのはいけないことですよ」
早く行った方がよろしいでしょう。と、仙が促す。
それに芙三は機械仕掛けの人形のように跳び跳ねて、そしてバッと踵を返して走り去っていく。
「きっとですわよ!!約束ですからね、お兄様ー!!」
嬉しさを隠しもせず、芙三は来た道を兎の仔のように跳ねながら帰っていった。
「………芙三はああいうこと言ったんだけどな、仙」
お前、学習院には行かない方が良いぞ。と、芙三の姿が消えたことを確認して、胡二郎は声をすぼめてそっと弟に忠言を送った。
「は……それは、なぜでしょうか」
「うん……まあ、それは………な」
……仙は何も知らない。自分が外で何と言われているのか………
胡二郎は思う。こんな、外界から隔絶された温室の中で、清らかな水と栄養だけを与えられて育ってきた仙には到底耐えきれないだろうと。
だから、深淵よりも黒々とした悪意が渦巻く学習院ではなくて、あえて学習院とは無縁の外界の中学に行くよう勧めたのだ。
「そうだ。どうせなら、府立一中に行け。な?うん、そうだ。そっちの方が良い」
「府立一中?」(※21)
きょとんと目を瞬かせる仙に刷り込むよう、胡二郎は何度も頷きながらそっと囁きかける。
「数え十三から通うのが中学校だ。学習院では中等科って言うんだけどな。教えていることは大差ないよ。ただ単に、学習院は華族の子が無試験で入れるってだけで」
「……そうですか」
とは言われても、仙にはどうやらピンとこないらしい。しきりに首を傾げて考え込んでいる。
「府立一中だったら、それほど離れていないし……学習院よりちょっと遠いだけだ。ただ、受験をしなきゃいけないけど……お前だったら十分いける」
「兄上……?」
「うん。だってさ、ほら……社会勉強がしたいって名目で学校に通うことにするのが一番説得力があるだろ? そしたら、学習院はここと大差ないからさ……だから、むしろ華族の子息が一人もいない場所に行く方が自然だろ?」
いたいけで無垢な弟を騙しているようで気分が悪いが、背に腹はかえられない。なんとか必死で説得していると、胡二郎から尋常ならざる気配を感じ取ったらしい仙が「判りました」と一言。
「では、府立一中……に行きたいと。父上に願い出ればよろしいのですね」
「ああ、そうだ。府立一中だぞ。東京府立第一中学校。間違えるなよ」
約束だ、と。ここで兄弟二人は密かに誓い合った。胡二郎は、確かに弟である仙を思って府立一中を勧めたのだ。
───それが、仙の運命を狂わせることになるとも知らずに。
※21:東京府立第一中学校。この当時はまだ「東京府」で、東京が都になったのは戦中の話です。戦前の中学校は今とは違い義務教育ではなく、入学のためには受験が必要でした。(そのため、大学浪人ならぬ中学浪人があったとか)
また学年も五年生まであり、女子は入れず生徒は男子だけです。




