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(12)遙か遠くを見つめる瞳

 予定されていた行事は粛々と進行され、最後に侯爵が自分の次に爵位を継がせる後継者を指名して隠居することを表明したことで終了した。

 結局、侯爵の爵位を世襲することになったのは長男である樟一郎。後妻側の親族は落胆し、前妻側の親族はほっと胸を撫で下ろしたばかり。

 三男の登場という予期せぬ事態が起きたが、なにはともあれ結果は決まった。


「本当に驚いたわ。てっきり、川島(かわしま)芳子(よしこ)(※19)みたいな男装の麗人かとばかり……」


 今は懇親会の最中だ。集会室は先程となんら変わりなくざわめいている。人々の談笑と、そして世間話の中に見えかくれする虚実交えた噂話。正式に侯爵家の次期当主に決まった樟一郎への挨拶や、胡二郎が婚約者の家に婿養子として入るという話など。話題は尽きず、だがそのほとんどが突如現れた侯爵の三男についてのものだった。

 長男のこと、次男のこと。そして三男のこと。侯爵家の子息三人を話題に出している人の割合は先程とほぼ変わりない。


 ただ単に、その内容が悪意のある噂話では無くなっているだけだ。渦中の人物である三男、つまり尾坂は侯爵と樟一郎に挟まれてうっすら微笑みながら佇んでいた。


「申し訳がない、この子はつい半年前まで米国に駐在していたからね。最近の国内事情についてはあまり詳しくは無いんだ」

「米国! それはまた、随分と遠いところに……」

「ええ。三年間、米国の大学に留学をしておりました。無論、軍の命令ですが」

「ほほう、どこの大学で?」

「イリノイ大学の工学科です。留学中に現地の連隊にも隊附中尉として入隊させて頂けましたので、大学に通いながら米国陸軍の視察も行っておりました」

「その時、連隊主催で行われたフェンシングの大会に飛び入り参戦で優勝したんだろ?」

「おや、そうなのか。お前、いつの間にフェンシングなんか覚えたんだい。私はそんなこと教えた覚えは無かったはずなのに」


 あれほど機嫌の良い侯爵を見たのは何年ぶりだろうか、と芙三は考える。随分と長い間父親の顔もまともに見ていなかったので、思い出せなかったが。


「ええ、そうです。音楽や舞踊(ダンス)、それに語学などについては父上からみっちり仕込まれましたが、武道だけは……ついぞ教えては頂けませんでしたね。信じて頂けないかもしれませんが、実はフェンシングをやったのはその時が初めて。本当の本当にずぶの素人でしたよ」

「そ、そこから優勝されたのですか?」

「はい。三日だけ時間があったので、予定を切り詰めて猛特訓をいたしました」


 何かを思い出しているのか、伏し目がちになりながら尾坂はそっと囁く。長い睫毛がまろい頬にうっすらと影を落とし、話し相手の視線を釘付けにした。


「それだけです。フェンシングなんか、その時まで規則(ルール)でさえ知りませんでしたよ。ですが日本人代表として出てほしい、と言われたら断れませんでした。なので、三日間だけ特訓して挑んだら、まぐれで優勝してしまっただけです」

「それでも、飛び入り参戦で現地の猛者達を軽くいなして優勝されたとは素晴らしい。日本人として(・・・・・・)誇りにおもいますぞ」

「……ありがとう、ございます」

「さすがは侯爵のご子息。何でもそつなくこなしてしまわれる天才肌は、お父上譲りの才能ですなぁ」

「…………」


 ふ、と。一瞬、ほんのごく僅かだが尾坂の表情が変化した。

 とは言っても、微かに口角が下がっただけだ。よほど彼のことを知っていて、よく見ていないと判らない程度の僅かな差である。

 芙三はその変化に気付いていたが、それは自身の兄の一挙一動をこの目にしかと焼き付けておきたいと躍起になっていたからだ。余程観察力に優れていない限り、その変化は見抜けないだろう。


「本音を言えば、危ないことは止めてほしいのだがね………それで、誰に教わったのかな。そのフェンシングは」

「……………私が、誰かに師事したと? まさか。あんなの、要は突きの剣道ではないですか。それでしたら話は早い。元々剣道は幼年学校で尊敬していた先輩から散々叩き込まれてきたので、それなりの(・・・・・)実力は身に付いておりました。要点だけ押さえておけばあんなお遊戯(・・・)、我流で十分です」


 口角が下がって無表情になったのはほんのごく一瞬だけ。次の瞬間、尾坂はその赤い唇に緩く弧を描いて目を細める。光の加減が変わったことで、瑠璃色の瞳が青灰色に変わって煌めいた。


(あ……あれは、)


 あの、貼り付けたように薄っぺらい微笑みは、尾坂が心を閉ざした時に使うものだ。

 あれは彼にとって「もうこれ以上関わらないでくれ」という意思表示である。うっそりと甘く微笑んでいるように見せ掛けて、じっくりとよく観察して見たらまったく笑っていないという。

 しかしなまじ顔が整い過ぎているせいで、それに気付く者は皆無だった。


「米国では黄禍論(おうかろん)(※20)が燻っていると聞いておりますし……此度の恐慌で国内は荒んでいると聞き及んでおりますが、治安の方はいかがでしたか?」

「…………」


 視線を微かに斜め下に向けている。どう答えるべきか考えあぐねているようだ。

 だが、それはほんの一秒程度の話。すぐに顔を上げて、薄い愛想笑いを浮かべたままこう答える。


「………ええ、そうですね。多少は(・・・)悪意を向けられたことはありますが……」


 そこで尾坂が愛想笑いを崩した。おそらく本音に近い発言なのだろう。口の端を吊り上げて、この世の全てを斜に見ているかのような冷めた目で皮肉を漏らす。


「あまりにも幼稚すぎて逆に笑ってしまいましたよ。ええだって、見事なまでに全員同じことしか言ってこないのですもの。そういう教科書でもあるのかと疑ったのですが、本当に罵倒の台詞がそれしか無かったようです。呆れるくらいに貧相な語彙で逆に憐れみを覚えましたよ。実際、ちょっと嫌味を言ったら尻尾を巻いて逃げて行きましたし。よく吠える犬ほど弱い負け犬という奴ですね。それでしたら、黄禍論よりもむしろ禁酒法のせいでのさばった犯罪組織の方がよっぽど脅威でした。それにしても治安を維持するために制定した法律で逆に治安を悪くするなんて、米国も中々面白い実験をするものだと感心しております」


 鼻で笑って一蹴した尾坂に、称賛の声が上がる。半分はおべっかのようなものだったが、残りの半分は本当に気分が晴れたからだろう。この暗いご時世、少しはこの鬱屈とした嫌な気持ちを払拭したいのは誰だって同じ。それが、普段から理不尽を押し付けられていると肌で感じる相手の鼻を明かしてやったという話題なら尚更。


「…………」

「本当に凛々しくて素敵な方ねぇ……本当に殿方なのかしら?」

「ほら、ご覧になって。あの脚……とても長くて、しかも羨ましいくらいの美脚だわ」

「華奢で線も細いですし、もしかして芳子さんのように女を捨てて、男装して軍に入られたとか。そんなこと無いかしら?」

「まさか、兄は男性ですよ。喉仏がありますし……何より、掌が。ああ見えてとっても大きくて包容力がありますのよ」

「あら、そうなの! ちょっと残念ねぇ。いっそ本物の女性でしたらよろしかったのに」

「そうですわねぇ。そうしたら、元祖男装の麗人としてマスメディアに引っ張りだこでしたのに……」


 つい一時間ほど前までの陰口はどこへ言ったのやら。いっそ清々しいほど掌を返してきたおば様方の相手を適当にしながら、芙三はそれでも尾坂の方を観察している。


「それにしても、あの美しい青色の瞳………芙三さんの耳飾りの色みたいに深くて綺麗ねぇ」

「母方のお祖父様が露西亜人というお話でしたっけ」

「いいえ、違います───兄の祖父は露西亜(ロシア)人ではなく瑞典(スウェーデン)人ですわよ、おば様」


 そこの部分をどうか間違えないで頂きたい、と言外に囁きながら芙三は艶やかな微笑みを浮かべる。

 彼は露西亜人との混血ではない。瑞典人の血を引いて、日本で産まれて日本で育った……日本人だ。

 流し目で自らの三番目の兄の端整な横顔を見ながら、芙三は自身にも言い聞かせるように呟く。



「そして彼は───わたくしにとっての、最も尊き白鳥の王子さまです」



 そっと目を閉じると、懐かしい光景がすぐに記憶の底から引き上げられてきた。








※19:【川島芳子】1907年5月24日 - 1948年3月25日

本名は愛新覺羅顯子あいしんかくら けんしで、清朝皇族の王女。川島芳子は日本人の養女になった際に付けられた名前。17歳の頃に拳銃自殺未遂を行った後に断髪して「女を捨てる」と宣言したことが話題となって、清朝ゆかりの高貴な血筋や端整な顔立ちなども相まって「男装の麗人」として一躍時の人となる。その最期は中国での銃殺刑でしたが、今でも生存説が囁かれるなど数奇な人生を辿った方です。


※20:黄色人種に対する脅威論。人種差別の一種。残念ながら21世紀に入った今なお根強く残っているみたいです(作者の周辺人物の話から察するに)。この当時の米国でも排日移民法が制定されるなど、意外と対日感情は険悪だったそうです。とは言っても場所によって程度に差はあったらしいですし、全員が全員悪感情を抱いていたという訳ではありません。



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