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 あのとき、タコのカルパッチョへの強い食欲に脳を支配されて、拾ったキーホルダーを何の気なしにポケットに入れて帰ったのを出社してから思い出したのだった。捨てるのも気が引けて引き出しに放り込んでおいた。ピヨは勝手に俺の引き出しを覗いていたのか。

「それ、朝倉のだったのか。そういえば、デパートのトイレ前でぶつかったんだっけ」

「本人に確認してきました。いつのまにかなくしていたとか」

 さっきまでの笑顔を封印し、部長は厳かに息を吐いた。

「件の給湯室にも頻回に出入りしてたんだってな。社外でもつけ回していたとは。橋場君、今日は帰りなさい。しばらく出社しなくていいから。自宅で連絡を待ちなさい」

「俺はストーカーじゃありません!」

 喉から血が吹き出そうな声になった。ポケットからスマホを出してテーブルに叩きつける。

「スマホ調べてもらってもかまいません! 怪しいやりとりも盗撮画像もありませんよ。俺は潔白です」

「うーん……それだけだとねえ」

 部長はスマホに触ろうとしない。削除済だと思われていたらストーカーではない証明にはならない。だが見てくれれば印象は変わると橋場は思う。

 近所の野良猫とか道端の花の画像を見てくれ。連絡先の少なさに泣いてくれ。SNSだって仕事関係としかつながっていない。

 だが部長の態度は部下を突き放すに等しかった。

「見てもしょうがないねえ」

「あ、わかった」

「なんだね」

「部長がストーカーなんでしょう」

「なにを言い出すんだね、君は……!!!」

 部長の顔は強酸につけたリトマス試験紙のように赤くなった。

 橋場は立ち上がり、会議室の中をぐるぐる回る。すると、ますます気が昂ぶってきた。靴下はとうに踵の峰を越えている。

 凝集した澱が土踏まずにまとわりついているようだ。気持ちが悪い。

 橋場が靴を脱ぐと、部長がびくっとなった。

「部長に理解してもらえないのは残念ですよ」

 靴下も脱いだ。床が氷のように冷たい。だがそれ以上に開放感が心地よかった。ぺたぺたと滑稽な音を立てて歩きながら、横目で部長とピヨの困惑顔を見る。

 怪しいと思えば誰もが怪しい。

「部長じゃないというならピヨですよ。同期の星とか言って特別視してたし、優秀さに嫉妬してたんですよ。俺を陥れようとしてるのが証拠だ。こいつが本物のストーカーです」

「八つ当たりですか、先輩?」

「おまえのスマホ貸してみろ」

「嫌っす」

 ピヨはスマホを背に隠し首を左右に振った。

「やましくなければ隠すことはない。ほら、これが証拠ですよ、部長。……部長?」

「自宅待機を命じる!」

 それだけ言うと部長は大股で会議室を出て行った。

「くそう。自宅待機だなんて守ってられるか……!」

 ピヨは「人事の呼び出しを待ちましょうよ。それに」と言って、苦笑した。

「それに、なんだ」

「もう噂になってますよ。朝倉さんのマグカップに性的な悪戯をするために給湯室に忍び込んだんじゃないかって。……先輩、耐えられます? みんなの白眼視に」

「そうか、いい考えがある。俺が朝倉のストーカーを捕まえてやる。俺はヒーローになり、みんなの見る目がかわり、朝倉にも感謝される。いったいどんな奴なんだ、ストーカーってのは。おい、朝倉に訊いてみてくれ。同期のおまえなら連絡先わかってるだろ」

「わかるわけ……あッ」

 隙をついてピヨのスマホを奪う。画面がロックされていた。四桁のパスワードか指紋認証だ。パスワードを言わないと窓から落とすと脅したが、ピヨは頑として口を割らない。

「返してくださいよ。強盗の罪を重ねる気ですか」

「やっぱりおまえがストーカーだったんだろ。俺におっ被せやがって」

 ロックを解除するための四桁の番号はなんだろう。

「ふん、好きなだけ打ち込んでください。どうせ解除できないんだから。ちなみに僕の誕生日とかじゃないですからね」

 何回か連続で間違えるとしばらく入力できなくなる。ピヨの誕生日なんて覚えているわけがない。朝倉の誕生日なんて知ってるわけがない。

「ああっ、もうそれ以上入力しないでッ!!」

 ピヨの悲痛な叫びを無視して、適当な番号を打ち込んだ。

「ん?」

 ロック画面が消えていた。開いたのだ。

 ピヨは激しく狼狽えた。必死でスマホを奪い返そうとする。よほど隠したいことがあるに違いない。怪しい。

 橋場の指はなめらかに画像フォルダを開いた。

 そこには嫌になるくらい見知った人物の盗撮画像がみっちりと詰まっていた。

 盗撮された人物は、しかし朝倉ではない。

 観念したのか、ピヨはその場にへなへなとうずくまる。

 スマホを返した。

 世の中には知らないほうがいいことは確実に存在する。悔恨の味は苦い。

「見なかったことにする」

「……」

「俺は自力で名誉を回復する。そのためにはピヨ、おまえは覚悟しておけ」

「……はい」

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