優しい嘘と泉の精霊
ローズ・クレストを風通しの良い窓辺のテラスに安置し、塗料が乾くのを待つことにした。
シンナーの刺激的な匂いが窓の向こうへ遠ざかると、部屋には再び静寂が満ちる。白い街のざわめきは遠く、潮混じりの温い風だけが、ときどきカーテンの端を揺らした。騒々しい相棒とも、今は少しだけ距離がある。
わたしは一人、カテリーナから渡された本をそっと手に取った。
表紙には、淡いパステル色で描かれた泉と、少女が静かに佇んでいる。その絵柄は夢のように現実離れしていて、紙の手触りには微かなざらつきがあった。ほんのりと古いインクの香りが鼻をかすめ、ページの縁を指先でなぞると、細かな繊維が爪の先にそっと引っかかった。
彼女がこの本を選んだ理由を考える。わたしがまだ「子ども」に見えるからだろうか――そんな思いが、肋骨のあたりに細い棘となって立った。侮られたような痛みが、ほんの少し疼く。
でも、不思議と心のどこかでは安堵もしていた。もしもこの物語が優しいものであれば、過去の痛みに触れずに読めるかもしれない。
――甘い。
そう思ったのに、指は表紙から離れなかった。
表紙に指を滑らせた瞬間、喉の奥の空気がひとつ引き攣れた。これはただの物語ではない――そんな予感が、やけに確かだった。
題が目に入る。
『~精霊の泉の姫巫女メービスの伝説~』
――メービス……。
その響きに、指先がぴくりと跳ねた。
前世の記憶にある名は『メイヴィス』。かつて舞台の上で演じた役名とは、わずかに音が違う。綴りが違うのかもしれない。あるいは、長い時を経て伝言ゲームのように摩耗し、音が変わってしまったのか。けれど、その微かなズレこそが、この伝説がただの作り話ではないという不気味なリアリティを帯びて迫ってくるようだった。
メービスと、メイヴィス。似て非なる二つの名が、わたしの記憶に沈んでいる澱をかき混ぜる。
わたしはゆっくりとページを捲った。紙の擦れる音が、静かな部屋に小さく響く。指先がわずかに震えているのが分かる。息を吸い、思い切って物語の中へ踏み込む。過去の自分へ触れてしまうような、どうしようもない切なさが薄い膜みたいにまとわりついた。
内容は、かつてわたしたちが演じた舞台の物語とほとんど同じだった。
『緑の髪を持って生まれた特別な姫巫女メービス。異界と繋がる裂け目から魔族が現れし時、彼女は精霊からの託宣を受けた。王様は王国最強の騎士ヴォルフを護衛に随行させることを決定。二人は精霊の泉を探索する旅に出るのであった』
ページの端が、指の腹で小さく鳴った。窓の外で、どこかの戸が閉まる音が一つだけして、すぐ遠ざかる。
それが、みぞおちの奥に奇妙な違和感を生む。舞台上で命を吹き込んだ物語が、いまは柔らかな言葉と優しい筆致で彩られ、こうして児童向けの本になっている――。
その現実に、何とも言えない苦い感情が、胃の底を押し上げてきた。
本の中の『メービス』は、わたしが演じた『メイヴィス』ではなかった。いや、理想化されすぎていた。物語の中で描かれる彼女は、凛々しく聡明な存在。人々を導き、使命を全うし、最後には命さえ惜しみなく差し出す「英雄」の姿だった。
けれど――。
本当に、彼女はそんなに強かったのだろうか。隣に描かれている騎士ヴォルフもまた、どこか違って見える。忠実な「従者」としてあり続ける彼は、物語の中で決して報われることのない存在として描かれている。
指が次頁を押さえたまま、少しだけ力を抜いた。紙がわずかに反り、また元に戻る。
テラスのほうで、風が何かを軽く鳴らした。塗料の匂いが一瞬だけ戻り、すぐ薄れる。
最後の場面――。
魔族の大将が二人を襲う描写は、息を呑むほど鮮やかだった。メービスは、魔族の囁きに怯まず、自らの命を泉の精霊に捧げる覚悟を決める。その決意は、あまりにも美しく、そして切なかった。ヴォルフもまた、迷いなく彼女と共に命を投げ出す意志を示す。そして、そのまま二人で泉に沈みかける――
わたしはページを捲る手を、そこで止めていた。
「彼女は、本当にヴォルフの気持ちに気づいていなかったのだろうか?」
その問いが、胸の奥で静かに波紋を広げる。けれど同時に、胃の奥が小さく締まった。
物語は終幕で、泉から一本の聖剣が現れる。精霊たちは二人の勇気を称え、世界を救うための力を授ける。そして最後に、二人が戦う意志を固める場面で締めくくられる。それは祈りと願いが結実した奇跡のような瞬間だった。
けれど、その光の裏にひそかな切なさが残ることを、わたしは知っている。
結末を迎える前に、わたしはそっと本を閉じた。紙のふちが、微かに指先に引っかかる。
頭の中には、あの舞台のシーンが鮮やかに蘇る。
◇◇◇
舞台の台本では、彼の名はウォルターだった。
「メイヴィス!!」
背中へ彼の叫びが刺さる。
「さっき言いました。あなたは随行の騎士です。それ以外に何があるというのですか?」
冷たい言葉の裏で、心が裂ける音がする。
「君は嘘をついている!! それは一番いけない嘘だ!」
叫びが、作った壁を易々と破る。
「旅をしている間、君はとても嬉しそうにしていたじゃないか。外の世界に出るのは初めてだと聞いた時にはびっくりしたが、だからこそ初めて見る世界が楽しくて仕方ないんだろうなって思った。あれは偽りなんかじゃない。君の本当の姿だった」
こらえきれず振り向くと、彼の瞳に深い悲しみが揺れていた。その痛みが、わたしの芯を貫く。
「そうね、否定はしない。あなたとの旅はとても楽しかった。けれど、こうなることは最初から決まっていたの。巫女なんていっても、結局わたしは泉に捧げられる生贄みたいなものだから。そのために生まれて、そのためだけに生かされてきただけだから」
「ばかな……」
「外の世界など知らず、どんなに願っても、人並みの幸せなんてやって来ないって思っていた。ちゃんと生きてみようだなんて、考えたこともなかった……。だからね。少しばかり楽しませてもらうくらい、許されたっていいんじゃないのかしら?」
頬を濡らす涙の下で、平静を装う。嘘が奥へ奥へと抉っていく。
「じゃあ、俺のことはどう思っていたんだ?」
「あなたは……とても勇敢で……とても頼りになりました。ここまで護衛としての役割を、よく果たしてくれました。感謝しています」
嘘を重ねるたび、息が細くなる。
「本当にそれだけなのか? 君にとって俺という存在は、それだけだったのか?」
滲む痛みに、視界が歪む。
「ええ、そうよ……。それだけのこと」
言葉が落ち、泉の水音さえ遠のいた。一拍、世界が息を潜める。指先が氷のように冷え、胸の奥で何かがきしむ。言葉と同時に、涙は止まらなくなった。
これで、お別れできる――そう唱えながら。
ふたたび背を向け、泉へ向き直る。
「お願いします。あなたは一刻も早くこの場から立ち去って下さい。そして……生きて……」
込み上げるものに、最後の言葉はほどける。
「お願い、生きて……ウォルター」
言葉は水面へ落ち、波紋に飲み込まれた。
私は背を向けたまま、泉へ視線を落とし続ける。頬を伝う雫が水へ溶け、彼に届く祈りへ変わっていくことを、ただ願いながら。
◇◇◇
紙の白が視界に戻った。指の腹に残る紙の繊維が、いまの部屋の静けさを思い出させる。みぞおちのあたりがひどく薄くて、息だけがやけに大きい。
けれど舞台のメイヴィスが吐いた嘘の冷たさは、そこで終わらなかった。あの台詞は、前世の別の夜――わたしが現実で選んだ嘘を、そっくりそのまま呼び起こしてしまう。
あの言葉がどれほどの虚勢だったか。どんなに切なかったか。わたしにはよくわかっていた。メイヴィスを演じることで、現実では叶うことのない救いへ手を伸ばそうとしていたのだから。
決戦を覚悟したあの夜、わたしは支えだった叔父に胸の内を吐き出した。
『そうです。わたしは最後まで嘘を貫き通すのです。彼女が抱く願いを裏切って、彼女を捨てて、勝手に消え去るしかない。それが、わたしができる唯一のことなのです。彼女を失望させて、憎まれて、最後は地獄に堕ちる。それがわたしが犯した罪の償い方なのです』
声が震えた。爪が掌に食い込んでいた。
『大丈夫……茉凜は強い子だから、わたしのことなんてすぐに忘れてくれる。こんなわたしなんかを大切に想ってくれた彼女にしてあげられることは、もうこれしかないんです。わたしは、わたしは……』
言えない一語が喉で熱を持つ。
――メービス、旅は楽しかった? ヴォルフのこと、どんなふうに思っていたの? わたしはあなたのことが知りたい。
腹の底で反芻する問い。返答はない。ただ、その問いだけが静かに遠のいていく。夜明け前の湖の底へ、石が沈んでいくみたいに。音も立てず、冷たい感覚だけが深みに降りていく。
今はまだ、答えを言葉にするには早すぎる。それは分かっている。けれど胃のあたりに、掴み取らなければならないような焦りが微かに疼く。
わたしは閉じた本の表紙を、掌で撫でた。
指の腹に伝わる装丁の凹凸、鼻をくすぐる古い紙とインクの匂い。その感覚だけが、心を鎮めてくれる。
思えば前世のわたしは、いつだって物語の中に逃げ場所を持っていた。色のない日常、孤独な部屋。息が詰まりそうな現実からわたしを連れ出し、違う人生を夢見させてくれたのは、いつだって紙の上の言葉たちだった。活字を追うあいだだけ、肩の力が抜けたのだ。
だからこそ、こうして本に触れていると、やっと息が吐けた。たとえそこに書かれているのが自分を縛る残酷な伝説だったとしても――物語という形式そのものが、わたしにとっては古くからの友人みたいなものだった。
深く息を吸い込む。インクの香りが肺を満たし、ざわつく心を少しだけ平らに均してくれる。
――その選択が正しかったのか、それとも間違いだったのか。
そんな微かな祈りを栞のように挟み込み、わたしは本をデスクの端に置いた。
◇◇◇
ふと顔を上げると、時刻はとうに昼を回っていた。窓から差し込む陽光の角度が変わり、空気中の埃が金色の粒になって舞っている。朝から何も食べていないせいで、胃の奥が鈍く空を切るように鳴った。
カテリーナとヴィルは早々に家を出てしまい、広い家に残されたのはわたしひとりだ。静まり返った空間の中で椅子から立ち上がり、窓辺のテラスへと足を向ける。
風に晒されていたローズ・クレストは、太陽の熱を吸ってほんのり温かい。恐る恐る指先で表面を撫でてみる。塗料の粘り気は消え、指の腹の下を滑らかさがすべっていった。
――完全に乾いている。
わたしは安堵の息を吐き、その柄をしっかり握りしめた。掌に馴染む重みと共に、相棒の気配が戻ってくる。
「お待たせ、茉凛。もう大丈夫そうよ」
呼びかけに応じるように、脳裏で懐かしいあくびの気配がした。
《《ん……あ、美鶴? おかえり、もう乾いたの?》》
「ええ、完璧よ。これでどこへでも持ち歩けるわ」
剣を鞘に納め腰に帯び直すと、茉凜の意識がふとクリアになり、何かに気づいたように声を上げた。
《《……それにしてもさ》》
「ん? なに?」
窓枠に手をかけ、外の景色を眺める。昼下がりの光が街並みを白く照らしていて、どこか眩しい。
《《カテリーナって、本当に外食ばっかりなんだね。ここらへんって店もないみたいだし、これじゃあ毎日朝ご飯抜きになっちゃうよ》》
彼女の意識は、どうやら空腹を訴えるわたしの胃袋とリンクしたらしい。
《《大人はそれでもいいだろうけど、あなたはまだ育ち盛りなんだから、ちゃんと食べないとだめだよね》》
茉凜の声には、どこか呆れたような優しさが滲んでいる。わたしは空になった胃のあたりを掌でさすりながら、小さく頷いた。
「うん。それなんだけど、わたしなりにちょっと考えてみたの」
思わず口元が緩む。窓から入る風が、頬を撫でて通り過ぎた。
《《考えって……まさか、また何か悪だくみしてるんじゃないでしょうね?》》
「違うってば」
剣の柄をぽんと軽く叩いて、わたしは振り返った。
「ねえ、茉凜。あなたにも手伝ってほしいんだけど」
少し含みを持たせた言い方に、茉凜は警戒するように問い返してくる。
《《いいけど、わたしに何ができるの? 文字通り、手も足も出ないのに》》
「それは行ってみれば分かるわ」
わざと素っ気なく答えると、案の定、茉凜は少しムッとした声色で抗議してきた。
《《そんな、もったいぶらないで教えてよ。けち》》
その拗ねたような言葉に、わたしはくすっと笑う。窓辺から離れ、部屋の中央へ歩きながら、少しだけ肩の力を抜いた。いつもの茉凜らしい調子に、心が緩む。
「んー、簡単なことよ。わたしたちで朝ご飯を作るの」
その一言で、茉凜は一瞬沈黙したかと思うと、驚きと戸惑いが入り混じった声を響かせた。
《《えーっ!?》》
「まあ、とりあえず街に行こう。お腹を満たしてから、食材を手に入れて……それからキッチンを掃除して使えるようにして、明日に備えるって感じかな。バレなければいいけどね」
指を折りながら段取りを数えると、茉凜の声が弾んだ。
《《悪くないプランだね。うん、意外に面白いかも。二人がどんな顔するのか、ちょっと楽しみじゃない?》》
その軽い調子に、思わず息がほどける。さっきまでの重さも、ほんの少し和らいだ気がした。
「でも、余計なことをして叱られたりしないかなって、不安でもあるの」
《《大丈夫だと思うよ。カテリーナって変な人だけど、頑張る人が好きなタイプじゃない?》》
ふと、昨夜の異国の味を思い出す。確かにそうかもしれない――けれど、彼女の親切に甘えてしまうことへの気まずさは消えない。
「そうね。だって寝る場所だけじゃなくて、情報まで提供してくれてるんだもの。本当なら謝礼を支払うべきなのに、『いらない』って譲らないんだから……せめて何かできることをしてお返ししたいの。そうしないと、わたしの気が収まらない」
《《ふふ、美鶴はやっぱり優しいね……》》
その言葉に、小さく眉を寄せる。
「また、そういうこと言う。違うよ。これは一宿一飯の恩義っていうか、わたしなりの仁義みたいなものよ。そうしないと、なんだか気持ちが悪いだけなの」
《《はいはい。そういうことにしておこう》》
笑いを含んだ声が返ってきて、わたしは肩をすくめた。
《《でも、そろそろお腹が鳴っちゃうよ? 早く行こうよ》》
その軽やかな声に背中を押されるように、気持ちを切り替える。せっかく外に出るのだから、物語のヒロインのように、少しだけ胸が高鳴る装いがしたかった。
「そうだね、行こう……あ、でも、その前に、せっかくだからドレスに着替えていくね」
《《それだ、それ! 肝心なことを忘れてたじゃない。きっと気分も上がるよ》》
こんなささやかなやり取りでも、どこか温かい気持ちに包まれるのは、彼女が一緒にいてくれるからだろう――。
わたしはクローゼットを開け、ミースの作ってくれたドレスを選び取った。指先に触れた布地は、滑らかな水のように冷たく、そして柔らかい。袖を通すと、絹擦れの音が微かに耳をくすぐり、鏡の中の自分が、ほんの少しだけ特別な物語の住人に変わった気がした。
窓から差し込む午後の光が、部屋の埃を金色の粒に変えて舞っている。その眩しさに目を細めながら、わたしは鏡の前で姿勢を正した。




