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グレイおじいちゃん

 石畳が真昼の陽光を吸い込み、柔らかな熱を靴底へと伝えてくる。歩みを進めるたび、幾重にも重ねたフリルが空気を含んで波打ち、衣擦れが足首のあたりでさざめいた。


 わたしは、月光を吸い込んだような白いドレスに身を包み、街の中心へと向かっていた。


 頬に触れたウィッグの毛先がくすぐったくて、結び目を指先でひとつ直す。まだ慣れていないせいか、首筋に癖のある感触が残る。黒髪を隠すための、ささやかな偽装だ。


 視線を上げれば、青空を背負って凛とそびえる「白銀の塔」。その威容は王都のどこからでも見上げることができる。けれど、ふと視界の端に映ったのは、その華やかさに寄り添うように立つ、一本の灰色の塔だった。


 ガイドマップには記されていない、沈黙した石の柱。その無機質な佇まいを見た瞬間、肋骨のあたりを冷たい指でなぞられたような疑問が走る。


 日陰の湿った匂いが、ふわりと鼻先を掠めた。


「こっちのほうが近道かも」


 手に持った簡易な地図を見つめ、独り言がこぼれる。目指すのは街の中央部、公設市場だ。昼下がりの気だるげな空気の中を、わたしは迷うことなく細い路地へと足を踏み入れた。


 ミースが精魂込めて縫い上げてくれたドレスは、驚くほど体に馴染む。高く仕立てられた襟が首筋を凛と支え、長い袖が腕をやわらかく包み込む。喉元から胸元にかけて整然と並ぶ小さなパールボタンは、清楚な輝きを添えていた。


 ウエストをゆるやかにまとめる布のベルトの上から、革の剣帯を重ねて締めている。そこに吊るしたローズ・クレストは、歩くたびに腰骨のあたりで小さく揺れた。派手なピンクの鞘が白いドレスの裾に映えて、我ながら少し気恥ずかしいけれど、茉凛がそばにいる証だと思えば、その重みは不思議と心地よかった。


 路地裏の影が濃くなり、乾いた石の匂いが強くなる。その先で、一人の背の高い老人が歩いていた。


 銀に霞んだ髪が、陰鬱な路地の中でそこだけ仄白く浮いて見える。身なりは良い。けれど足取りは慎重で、靴音が石の継ぎ目を探るみたいに途切れる。


「あのお爺さん、大丈夫かしら?」


 思わず漏れた声は、自分でも気づかないほどか細かった。みぞおちの奥から湧き上がる予感が、喉を微かに震わせる。


 その時だった。暗い路地の脇道から、一陣の風を裂くようにして男が飛び出した。


 唐突な暴力。一瞬、時間の流れが止まったように錯覚する。


「ええっ!?」


 鈍い衝突音。


 男の肩が老人にぶつかり、枯れ木が折れるように体が石畳へ崩れ落ちた。老人の手から離れた鞄が、砂利の上を無機質に転がる。


 そして――。


 男は汚い手つきで鞄をひったくると、振り返りもせずに駆け出した。革靴が硬い石畳を蹴る音が、狭い路地に鋭く反響し、遠ざかっていく。


 カッ、と。熱いものが、こめかみの裏側を一気に駆け上った。


「……ちぃっ!」


 舌打ちと同時に、全身の血が沸騰する。ドレスの裾を翻し、わたしは一歩、前へと踏み出していた。


 吸い込んだ路地裏の空気が鉄の味を帯び、喉の奥がひりつく。


「このひったくりめ! 待ちなさいっ!」


 叫び声が喉から飛び出した。だが、その声が男の足を止めるはずもない。辺りは静まり返り、虚しく反響する自分の声だけが残った。


「……これじゃ、追いつけやしない」


 脚力だけでは届かない。それでも、目の前で起きた理不尽を、ただ見送ることなんてできない。


 風嵐の囚(トルネードバインド)なら巻ける。白の渦で、足を奪って、絡め取って。


 ――だめ。


 喉の奥がひやりと縮んだ。相手は魔獣じゃない。渦を凝らせば、息も骨も簡単に折れる。何より、ここで派手にやれば目撃も噂も残る。わたしの黒髪も、剣も、まだ露見させるわけにはいかない。


《《美鶴、やる?》》


 茉凛の声が、意識の奥で短く響く。


《《……追いつけるだけ、小さくいこう》》


 肺の中の空気を吐き切って、腹を括る。力は抑える。使うのは瞬間だけ。渦を立てるほどの圧はいらない。


「いくよ!」


 足元に〈場裏・白〉を展開した。足裏がふっと軽くなり、石畳の硬さが遠のく。


 領域部分解放――吹き上がった風がふくらはぎにまとわりつき、次の一歩を強引に前へ押し出した。


 景色が流れる。白いドレスがはためき、頬を風が裂く。それでも瞼は閉じない。逃げる背中だけを、視線で縫い止める。


「これで終わりよ!」


 男の背中が迫る。勢いを乗せた右足が空気を切り裂き、その背へ叩き込まれた。衝撃が踵から腰へ突き抜け、骨に鈍い痺れを残す。


 男がつんのめり、路地の空気が一度だけ固まった。


◇◇◇


 指先にかかっていた襟の感触が、ふいに抜け落ちた。


 鞄は奪い返せたものの、わたし一人の細腕で男を制圧することは叶わなかった。倒れ込んだ拍子に腕を振りほどかれ、男の背中は脱兎のごとく路地の闇へと消えていく。


 砂利が靴底で滑り、掴んだ布がするりと抜けた。悔しさだけが、みぞおちの奥へざらりと沈む。


 足元で展開していた〈場裏〉の光が霧散し、現実の重力がずしりと体を縛り直す。わたしは息を整えながら、鞄を抱え直し、老人の元へと歩み寄った。


 砂埃が陽光の中でゆるく舞っている。彼は自ら体を起こしていた。――起こし方が、違う。


 転んだはずなのに、手のひらをつく位置が的確で、膝の曲げ方が静かだ。


 近づくほどに、彼の風貌が鮮やかに目に焼き付いていく。


 老人にしては驚くほど背が高い。背中こそ歳月なりに丸めているが、それでも百七十センチ以上はありそうだ。長く白い髪が肩へ流れ、豊かな髭が顔を覆っている。刻まれた深い皺には岩のような厳格さが宿るのに、目元には春の日向のような柔らかさが漂っていた。


 その圧倒的な存在感に、わたしは声を失って立ち尽くす。喉にかけた息が凍り付き、吐くことすら忘れてしまっていた。


 心臓が肋骨を内側から叩く音が、耳の奥でうるさいほど響く。


「あ、しまった!」


 我に返り、わたしは慌てて老人のもとへ駆け寄った。革のバッグを両手で差し出しながら、荒い息のまま声を絞り出す。


「あの、これっ、なんとか取り返しましたよ!」


 言葉はそれだけしか出てこなかった。老人は砂利を払いながらゆっくりと立ち上がり、目元を柔らかく細めた。


「これはこれは。お嬢さん、本当に助かった。ありがとう。なんとお礼を言ってよいか」


 達観した笑みが、強張っていた肩をじんわりと解いていく。日陰のひやりとした空気が、不思議と温かく緩んだ気がした。


「いえ、そんな……」


 思わず首を振るけれど、言葉は続かない。


「それよりも、お怪我はありませんか?」


 何とか気持ちを整えてそう尋ねると、老人は白い髭を指先でゆっくり撫でた。路地を抜ける風が凪ぎ、穏やかな気配がふわりと漂う。


「おかげさまで、この通りなんともない」


 そう言って両腕を広げて見せる仕草は、どこかユーモラスで、思わず笑みがこぼれた。


「それにしても、お嬢さんの勇気には感服した。目にも止まらぬ速さであの男に追いすがる姿を見て、思わず喝采を送りたくなったよ」


「そ、そんな!」


 顔がカッと熱くなる。わたしは思わず視線を足元へ落とし、スカートの端を指先で弄った。


「とにかく、お怪我がなくてよかったです。本当に……」


 それだけは心からの言葉だった。転倒した瞬間、最悪の事態を想像してしまったのだから。


 老人はうなずき、少し屈みながらわたしの目をのぞき込む。膝を軽く曲げ、視線の高さを合わせてくれるその姿勢に、目元の優しさがいっそう強く際立った。


「親切な人に巡り会えて、私は幸せ者だよ。お嬢さん、どうか僅かばかりではあるがお礼をさせてもらえないかな?」


「お礼だなんて、そんな……!」


 慌てて首を振る。けれど、彼の瞳には揺るぎない意志の色が宿っていた。


「なに、大したことではない。近くに私の懇意にしているティールームがあってね。君をそこに招待したい。茶の一杯くらいなら、気にすることもないのではないかな?」


 老人は鞄を肩にかけ直し、路地の先へ視線を向けた。その横顔に、どこか懐かしいものを重ねてしまう自分がいた。


「は、はい……ごちそうになります」


 断る理由が見つからず、わたしは小さく頷いた。


「ところでお嬢さん。お名前を聞かせてもらえるかな?」


 その声は柔らかくも鋭く、魂の形を観察するような眼差しを伴っていた。


「は、はい……わたしはミツルといいます」


 自分の声が小さく響いたのは、射抜くような彼の視線に、心臓を軽く掴まれたように感じたからかもしれない。


「ミツルか……」


 彼は少し間を置き、顎に手を当てながらもう一度その名を口にした。低い声が名前を包み込み、腹の奥に淡い温かさが広がる。


「このあたりでは聞き慣れない名前だ」


「……はい。自分でも風変わりだとは思っています」


 わたしは視線を泳がせながら答えた。


「だが、とても美しい響きだ。神秘的で、どこか異国の風を感じる……」


 老人の視線がふと遠くへ逸れた。路地の向こうに浮かぶ空を見つめるような仕草。


「そうだな……東方大陸の端も端、その辺りの雰囲気にも近いか」


「東方……ですか?」


 戸惑いながら尋ねると、彼はゆっくりとうなずき、深い皺を刻んだ顔に柔らかな笑みを浮かべた。


「いや、ただの想像にすぎんがね。ミツルという名には、どことなく自然との調和のような響きが感じられる。風や水、それらが交わる情景を思い浮かべてしまうのだよ」


 指先に、熱がふっと芽吹いた。気恥ずかしいのに、どこか心地よい。わたしは無意識にドレスの裾を握り、それからすぐに手を離した。


「……そんなふうに言っていただけるなんて、嬉しいです。ありがとうございます」


 自然と頭を下げていた。


「おっと、私からも名乗らねばならんな。失敬した」


 彼は軽く肩をすくめ、茶目っ気のある笑みを浮かべる。革靴が石畳を踏む、硬質な音が一つ響いた。


「私はグレイという。見ての通り、暇を持て余すだけの隠居の身だ」


「グレイさん……」


 わたしは小さくその名を繰り返す。


 ――なぜ?


 日陰の冷えが頬に残っているのに、胃の底だけが妙にやわらかい。

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