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番外 封蝋と羽毛布団 異国のパンフレットと新たな出会いの前

 夕刻の光が傾きかけたころ、玄関の隙間に差し込まれた一通の封書が、床板の上でひどく白く見えた。潮の匂いを含んだ風が、扉の下をすべって家の奥へ入り込み、古い木の乾きと混ざっていく。


 カテリーナはそれを拾い上げ、封蝋の硬さを指腹で確かめた。乾いた赤い蝋の縁に、爪がかすかに引っかかる。紙は安い。けれど折り目だけが、妙に丁寧だった。


 この癖は知っている。紙を見ればわかる、そういう相手がいる。


 窓をひとつ閉める。鍵をひねる音が、家の中の静けさを薄く切った。ついでに玄関の掛け金を確かめる。指先が金具を一撫でして、離れる。二度は触らない。


 暖炉へ視線をやり、灰の上に残った炭を寄せる。火種はまだ生きている。焦げた木と紙の匂いを、飲み込めるくらいには。


 火掻き棒の先が灰を引く音が、やけに大きい。誰もいないのに、誰かが起きてしまいそうだ。


 封を切った瞬間、紙の匂いに混じって、外の潮風がふっと鼻へ戻ってきた。


 文字は短い。余計な言葉はない。名も肩書きも場所も、どこにも書かれていない。けれど、それで十分だった。符丁は、彼女の中で勝手にほどけていく。


 ――エレダンにて対象と接触。Hユベルは『一年前に死亡』。そちらへ向かう。


 内容を淡々と反芻する。不思議と何の感慨も湧かない。なのに、指先が紙の端を押さえたまま離れない。


 目線が追記の一行で止まる。喉が鳴って、息が遅れる。


「おい、連れてくるのはまだ十二の女の子だと? ……い、いかん」


 声が出た瞬間、自分で自分に腹が立った。誰もいないのに、誰かに聞かれたような気がしてしまう。


 言葉にした方が負ける。そういう癖が、まだ抜けていない。


 紙を折り畳み、袖口で指先を拭うようにして、階段へ向かった。


 木の段が、ぎしりと鳴る。古い家はうるさい。だからこそ余計な音を立てたくないのに、足が勝手に速くなる。


 途中で一度だけ立ち止まって、息を整える。整えているのは息ではなく、顔だ。


 二階の廊下は薄暗い。壁にかけた布が、風でわずかに揺れている。戸の隙間から、乾いた花の匂いが先に触れた。


 扉を押し開けると、空気が違った。ここだけは整っている。誰に見せるでもないのに、整えてしまう部屋。


 整っている、というより――逃げ場みたいな匂いがする。


 棚の奥から白いシーツを引き出す。布が擦れて、細い埃が舞う。


 咳が出そうになって、唇を噛んだ。代わりに息を細く吐いて、シーツを広げる。角を揃える。指先が勝手に几帳面になる。


 整えた角が、ひとつだけ歪んで見えて、また直す。ばかばかしい。


 羽毛布団を出すときだけ、動きがふと柔らかくなった。ふくらみが雲みたいに膨らみ、窓からの光を抱え込む。


 その明るさが、さっきの封書の白さと重なって、胸の奥が嫌に静かになる。


 枕元には匂い袋。乾いた花の甘さが、古い木の匂いをほどく。結び目がきゅっと細い。今しめたみたいに、きれいすぎる。


 ――別に、喜ばせたいわけじゃない。


 そう思った瞬間に、指がもう一度角を直していた。言い訳の方が遅い。


 ――やってくるのは、年端もいかない女の子だろ。


 それだけで、頭の中が勝手に忙しくなる。髪は結び直したほうがいいか。水は。湯は。タオルは。思いつく順番が、生活の順番になってしまうのが腹立たしい。


 拳を握ってから開く。ばかばかしい、自分が。


 窓辺の埃を指でなぞり、見つけてしまった汚れを、結局は拭き取る。濡れ布巾の匂いが一瞬だけ立って、すぐ消える。消えてくれないものもあるのに。


 それが終わってから、ようやく呼吸が戻った。


 階下へ降りる前に、鏡の前で顔をつくる。唇の端を引き締め、眼差しを冷たくする。


 目尻だけ、甘くしない。そこから漏れる。そうしないと、すぐに見抜かれてしまう気がした。


 カテリーナは手紙を胸元にしまい直し、階段を降りた。床板の軋みが、さっきより静かに聞こえる。


 静かにするのは、家のためじゃない。


 暖炉の灰が、彼女を待っている。


 紙は燃える。文字は消える。匂いも、いずれ消える。けれど二階の部屋だけは、妙に整ったまま残ってしまう。


「それにしても、まさかユベルが娘をこさえていたとはね。それも母親は……考えるまでもないことか……」


 呟きの続きは、炎の爆ぜる音に呑まれた。


 ヴィルがミツルを伴ってカテリーナ邸を訪れるのは、それから数日後の事である。



 ※カテリーナ宛に封書を送ったのは、クワルタでミースに偽装道具の製作を依頼した後と見られる。差出人は偽名で、文面は名や場所を伏せた符丁のみ。受け手が即座にほどける書き方になっている。


 20数年前、ユベル、ヴィル、カテリーナの関係は、単純な友情だけできなかった。未曾有の災害と呼ばれる「西部戦線」を経て、国の先行きを憂えたユベルはメイレア王女を拐い、逃亡する。ヴィルは騎士を廃し、探索の旅へ。カテリーナは軍を抜け、情報屋へ回った。 


 そのときカテリーナが何を選び、何を捨てたのかは定かではない。ただ、今回のユベルの死は、簡潔すぎる符丁で告げられた。淡々と受け止め、「何の感慨も」と内省してしまえることが、逆に痛い。大きすぎるものほど、言葉にした瞬間に崩れる。だからこそ彼女は、他人事みたいな口ぶりで自分を包む。 ユベルの娘。その母も。自分が選ばれなかったことも。 続きが炎に呑まれたのではなく、呑ませたのだとしたら。静けさは、余裕ではなく、癖の名残なのだろう。

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