ローズ・クレスト
晩秋と冬のあいだみたいな午前だった。けれど南から来る潮混じりの風が温くて、寒さはまだ本気を出していない。窓硝子の縁で光が跳ね、白い街の反射が、室内の紙の山へ淡くこぼれていた。
カテリーナとヴィルは先に外へ出ている。階段を下りる足音が遠のき、戸が閉まったあと、家の奥に残ったのは紙とインクの匂いと、静けさだけだ。
追うべきは実利、守るべきは正体――そのための、ささやかな偽装工作であった。
《《ダメ、美鶴。それだけはダメ。いけない。そんなの、ゼッタイ間違ってる!》》
脳髄を直接揺らすような、切実な悲鳴を意識の隅へ押しやった。紙とインクの匂いが沈殿する室内で、布袋の口をほどく衣擦れの音が硬く響く。
「お願い、茉凛……わたしたちに残された道は、もうこれしかないの。どうか受け入れてちょうだい……」
断崖に立つような、痛いほどの真剣さでわたしが手にしているのは、無骨な――
《《ねぇ、それって……刷毛でしょ? だいたいその色はなに? いったいどうしちゃったの、美鶴?》》
「……見ればわかるでしょ。これでマウザーグレイルをカスタマイズするの。あなた、ずっと言ってたじゃない? 『白ばっかりじゃ面白くない』って」
わたしはあえて抑揚を殺して告げると、刷毛の先に、糸を引くような粘度のある液体を絡め取った。手首の内側がかすかに震えたのを、毛先の重みで強引に押し込む。
缶の蓋を開けた瞬間、揮発した溶剤の刺激が鼻の奥を突き、つんと痛んだ。空気がひりつき、舌の裏が急速に乾いていく。わたしは肘で窓を指一本ぶん押し開け、隙間から滑り込んだ温い潮風に、一度深く息を預けた。
白磁めいた剣の表面へ、毒々しいほど鮮やかなピンクの塗料が、ぬらりと光沢を放って広がった。
《《待って、違う! わたし、そんな意味で言ったんじゃない! 美鶴、それ本当に大丈夫? 絶対後悔するって!》》
「後悔なんかしないわよ。これがわたしたちにできる最善の方法なんだから」
言い切ったつもりでも、語尾が鉛を呑んだように重く沈んだ。
最善の方法。いまだけは、この色で。
《《それじゃあ……なんだか、大切な場所に落書きされたみたいになっちゃう……》》
「落書きじゃなくてアートよ。アート」
茉凛の抗議を柳に風と受け流し、わたしは刀身へ躊躇なく刷毛を押し当てた。毛先が滑るたび、高潔な白い光が色の下へと沈んでいく。
切っ先から根元へ。白銀の冷たい輝きが、安っぽい樹脂の層の下へ封じ込められる。その背徳的な作業に、背筋から指先にかけて、微かな粟立ちが走った。
《《……まあ、外装の上から乗ってるだけだし、演算層までは届いてない、はず……》》
茉凛の諦めを孕んだぼやきが、刷毛の擦過音にまぎれて耳の奥で揺れた。
刷毛を動かす手が止まり、ぽつり、と余分な塗料が床の刷り損じの紙に落ちる。鮮やかな点状の染みが繊維へ滲んで広がるあいだ、部屋には濃密な沈黙が降りた。
「真面目な話をするとね。これは目くらましのためよ」
《《なにそれ、わけがわからないよ……そもそも、見られたら恥ずかしくない?》》
「わたしだって本意ではないわ」
刷毛を持ち替え、塗りむらを整えながら言葉を継ぐ。
「でも、これだけ派手な色に塗って、ワンポイントにかわいい絵でも入れておけば、もし見られても言い訳が立つでしょ。『親に持たされたおもちゃの剣です。悪い虫がつかないようにするお守りです』――ってね」
《《うーん……なんだかなー》》
最初に塗った層が乾きはじめ、溶剤の尖った臭気が少しずつ角を落とす。肩に張っていた余計な力が、小さく吐き出した吐息と一緒にほどけた。
わたしは柄の感触を指で確かめた。冷たい金属が掌の熱を吸い、代わりにドクドクという心拍の震えだけが、指先へ集まってくる。
「そうでもしておかないと、帯剣を咎められた時に困るでしょ? ほら、例の偽物の聖剣のことだってあるし」
《《それは、そうだけど……》》
「幸いなことにこの剣には刃もないし、おもちゃみたいに軽いから、言い訳も通るはずよ」
窓から入る風が、塗料の匂いを薄めながら頬を優しく撫でる。わたしは刷毛を置き、茉凛という知性が眠る剣の深淵へ、そっと意識を向けた。
「それともあなた、わたしと一緒に街を見て回りたくないの?」
《《行きたいに決まってるでしょ》》
即答だった。
《《置き去りなんてイヤだ。美鶴一人で観光したり、美味しいもの食べたりなんて……そんなのぜったい許せないもん》》
「でしょ? そういうわけだから、少しの間だけ我慢してね」
《《なんか、フクザツだな……》》
ぶつぶつ言いながらも、声に含まれていた刺々しい響きはもう消えている。
《《それにしてもだよ。美鶴って、こういう時だけはほんとにノリノリだよね? まるで悪巧みをしてる影の総司令みたいで》》
「あ、わかった?」
《《もう……》》
呆れと笑いが半々に混ざった声が、鼓膜の奥でくすぐったく弾ける。
ピンクの塗料が刀身を完全に支配していく様子を見つめながら、わたしは薄く口元を緩めた。
この暴力的なまでの明るさに、どこか救われている自分がいる。戦うためだけに研ぎ澄まされた冷徹な刃が、偽装という皮を被ることで、少しだけ違う温度を持ち始めた気がした。
《《でも、ピンクってのは安直すぎない?》》
「ああ……ピンクといったら女の子、ってつまらない固定観念があるものね。だからそれを逆手に取るのよ。ベストな選択だと思わない?」
《《そういえば……まだちっちゃい頃のことだけどさ、お父さんに自転車のフレームを、どピンクに塗られて恥ずかしい思いをしたことあるんだよね》》
刷毛を動かす手が、一瞬だけ止まった。
《《……あの時はさすがに引いたわ。美鶴はそんなことなかった? 平気なの?》》
「平気、かな……そもそもわたしには、縁遠い色だったし。特になんとも思わないわ」
不意に、前世の記憶が網膜の裏を冷たくかすめた。
柚羽美鶴として生きていた十一歳から十九歳まで、わたしの世界において『色』は死んでいた。感情も、景色も、すべてが無彩色のまま――ただ義務という名の鉄鎖を抱えて生きていたあの頃。
それを取り戻させてくれたのは、茉凛。凍てついた視野に彼女が灯した、唯一の『光』だった。
わたしは刷毛を持つ手を止めず、そっと剣の柄へと視線を移す。毛先が金属の冷たさをなぞるのに、皮膚の奥には、なぜかぬるい陽だまりのような感触が残る。小さな波紋が肋の裏へ、ゆっくりと広がっていった。
「……茉凛」
《《ん?》》
「ありがとね」
《《へ? 何が?》》
「なんでもない。独り言よ」
《《えー、気になるー》》
追及をかわすように、わたしは朝露をまとう花びらのような淡い模様を、黄色い絵具でひとつひとつ重ねていった。かつての『無色』だった世界へ、いまの『温度』が、やわらかく染み込んでいく。
《《こんなことして、ほんとにいいのかなぁ……》》
茉凛の声にはまだ微かな呆れが混じっていたが、その響きは先ほどよりもずっと柔らかい。
「まだ言ってる。いいのよ、この剣は肌身離さず持ち歩かなければならないんだから。誰も真面目に見ようとしないぐらいが、ちょうどいいの」
わたしは筆を持ち替え、今度は柄の部分に視線を落とした。ここに、もうひとつ仕上げが必要だ。筆先で、花びらが風に舞うような模様を描き加えていく。慎重に、けれど迷いなく。
冷厳だったはずの柄が、どこにでもある少女の遊び道具のような顔をし始める。
《《でもさぁ、美鶴。もし本当に誰かに突っ込まれたらどうするの?》》
「そのときは、そのまま堂々と言うわ。『これは芸術よ』って」
《《芸術ね……まぁ、確かにこんなケバケバしい色に塗ったら、誰もこれが得体のしれないヤバい兵器だなんて疑わないだろうけど》》
「でしょう? それにね、茉凛」
筆先に白い絵具を足し、花弁の輪郭を浮き立たせながら、わたしはわざとらしく声を低めた。
「やっぱり、インパクトが重要なのよ。ふっふっふっ……」
《《……まぁ、美鶴が楽しそうだからいいや。気にしたら負け!》》
頭の奥でくすりと笑う気配がして、つられてわたしの頬もゆるむ。
楽しそう――そう言ってもらえたことが、不意に喉の奥に沁みた。こんな状況でも、わたしたちの間に笑いがあるなら、この選択は間違っていないと思える。
「じゃあ、最後に一つだけ頼みがあるんだけど、いい?」
《《なに?》》
「名前、考えてくれる? この新しいデザインにぴったりなやつ」
《《えぇっ、名前!? そんなの急に言われても……》》
驚いた声が、すぐに弾んだ。
《《……でも……わかった。考えるよ!》》
茉凛が思考の海へ沈んだのがわかる。剣の奥で、彼女の意識が一生懸命にもじもじと動く感覚が、わたしの指先を通して伝わってくるようだった。
《《うーん……名前かぁ……でも、こういうのって一度決めちゃうと変えられないよね? 責任重大だよ……》》
「そのとおり。だからしっかり考えてね。わたしたちの、新しい旅の始まりを象徴するような名前を」
《《えー、プレッシャーかけないでよ……》》
少しの沈黙。筆先が乾きかけた絵具を拾い、かすかに引っかかるような感触を指に伝える。
《《えっと、じゃあ……『プリズム・ピュア』とか?》》
その甘ったるい響きに、思わず筆を持つ手が止まりかける。眉間にしわが寄るのを、自分でも止められなかった。
「……茉凛、それ、ちょっとかわいすぎない? なんというか、日曜の朝にやっている子供向けのアニメみたいな……いや、悪くはないんだけど……」
《《ええっ、そう? いいと思ったんだけどなぁ……》》
しゅんと萎れる声に、少しだけ喉の奥が詰まった。
「もう少し、中間くらいのやつにしてくれる? 柔らかいけれど、どこか芯のある感じというか……」
わたしは言葉を探しながら、剣の柄を指でそっと撫でた。ピンクの上の白と黄色の花模様が、午前の光を吸って柔らかく輝いている。どこか茉凛らしさを感じさせるその光景に、彼女が提案する名前も、どことなくその雰囲気を反映しているのかもしれない。
《《じゃあ……えっと、『ローズ・クレスト』とかは?》》
今度は少し自信なさげに、けれど期待を込めた声。
《《ちょっと高貴な響きもあるし、花っぽいのも入ってるし!》》
「ローズ・クレスト……」
舌の上でその音を転がしてみる。薔薇の紋章。棘と美しさと、そして隠された秘密。刀身に新しい意味が宿るような感覚が広がり、腹の奥に小さな、けれど確かな灯がともった。
「うん、悪くない。むしろ、いいわ」
《《ほんと!?》》
「じゃあ決まりね。この剣の新しい名前は『ローズ・クレスト』。茉凛が考えてくれた、最高の名前よ」
《《やったぜ! 褒められちゃった!》》
弾む声が、頭の中をぱっと明るくする。
《《でも、本当にその名前でいいの? 変えたいなら今のうちだよ?》》
「いいのよ。これがわたしたちらしいって、そう思えるから」
剣を静かに握り直す。馴染み深い重さはそのままに、視界に入る色彩だけが鮮やかに裏返っている。
「ありがとうね、茉凛」
《《うふへへ……》》
照れた気配が、指先を通してくすぐったく伝わってきた。
《《これで一緒にどこへでも行けるね! それで、最初にどこに行くの?》》
「……決まってるでしょ。まずは情報を集めて、それから――」
わたしは言葉を切り、窓の外へと視線を投げた。白い街が午前の光を返し、遠くで荷車の車輪が石畳を擦る音が伸びて、すぐ途切れた。穏やかな景色の奥には、わたしたちの知らない欲望や敵意が潜んでいるはずだ。
胸の奥で、何か小さなものが裏返る。けれど、以前のような、ただ凍りつくような冷たい恐怖ではなかった。
手の中にある『ローズ・クレスト』の、滑稽なほどの明るさが、指先の白みを際立たせていた。鞘に施された鮮やかな花模様が、窓からの斜光を撥ねて柔らかく爆ぜ、鉄の冷たさに微かな体温を分け与えているように見える。
茉凛の声が、鼓膜の裏を優しく撫でるようにして、わたしの意識を引き戻した。
《《美鶴、なんだかぼーっとしてる。大丈夫?》》
「……少し、考え事をしていただけよ」
茉凛にだけ届く内緒話のように、わたしは唇だけで呟いた。喉の奥に、飲み込みきれない熱い塊が居座っている。先のことを考えれば、足元から力が抜けていくような頼りなさに襲われる。だから今は、目の前の一歩だけを凝視する。
《《うーん、それならいいけど。美鶴が黙ると、なんだかそわそわしちゃうからさ》》
「わたしが黙るだけで?」
《《だって、どこか遠くに行っちゃいそうな感じがして……》》
声が、ふいに翳った。明るく保とうとするほど、音の端が薄氷のように冷えていく。
《《……ねぇ、美鶴》》
「なに?」
《《美鶴はさ、これからどんどん大きくなるでしょ? もっとキレイになって、いろんな人と出会って……素敵な誰かと――》》
「……やめてよ、そんな話……」
《《ううん、別に責めてるわけじゃないよ。ただ……そうなったら、いいなって思っただけ》》
無理に作られた明るさが空ろに滑って、失敗している。語尾が沈み、笑いの輪郭をなぞりきれないまま、部屋の音が薄く遠のいた。
「どうして、そんなこと言うの?」
《《わたしはここで、ずっと変わらないままなのかもしれない》》
返事が遅れる。刷毛の毛先が乾いて、紙の上で小さく引っかかった。
《《でも、あなたが見たものは、わたしにも入ってくる》》
短い言葉のあと、沈黙が薄い。怖さがそのまま残る。
「どうしてそんなことを言うの? わたしはあなたとずっと一緒にいられれば、それでもういいの。……約束したじゃない」
《《そうだね。前世で最後にそう誓い合った。でも、それじゃ“ちっちゃなミツル”は幸せにしてあげられないよ。あなただってわかるでしょ? ミツルが何に憧れていて、何を願っているのかってこと……》》
「そんなの……わかるわけない」
言い切った途端、胃の底がきゅっと縮む。わからないのに、手は離したくない。
《《今は、そうかも。いろいろごちゃごちゃしてるもんね。でもあなたがどんな道を進もうとも、わたしはいつだって一緒だよ。だからさ、思ったことに素直になっていい。ほしいものはほしい、って言ってもいいんだよ》》
「そんな、あなたみたいになれるわけないでしょ……」
窓の外、白い石畳が陽を返し、影だけが細長く伸びていた。
《《なれるよ。いつかきっと》》
その声は、消え入りそうな祈りに似ていた。
「今言えることは、わたしの人生にあなたがいない未来なんて、想像もできないってことだけ」
ぶっきらぼうに言い切ると、剣の奥から、くしゃりと歪んだ笑いの気配が返ってきた。泣いているのか、笑っているのか判別できないほど、胸の奥に滲む温度だけが熱く、疼くように広がっていく。
《《……そうだよ。いつだって一緒。あなたの幸せを見守ること、一緒に噛みしめること。それがわたしの幸せなの》》
「茉凛、あなたって……」
《《いっしょにしあわせになろう? ミツルだけじゃなくて、わたしもしあわせにしてよ》》
「うん……」
寝台の上に刷り損じの紙束を広げ、その上へ『ローズ・クレスト』をそっと横たえた。乾ききらない塗膜の重苦しい刺激が残り、呼吸を繰り返すたびに、舌裏が鉄の味を帯びてざらつく。
窓の隙間から滑り込んだ温い潮風が、汗ばんだ背中を撫でて通り過ぎる。机の端で刷毛の柄が小さく鳴り、朝の音が戻ってきた。
わたしは視線を遠くの街へと向けた。霞の向こうに広がる景色はまだ、涙を透かしたようにぼんやりとしているけれど、その先にわたしたちを待つ未来が、確かにあるのだと信じたかった。
――わたしはひとりじゃない。
そう呟いて指先の力を抜くと、微かな衣擦れの音だけが、静寂の中に溶けていった。




