黒髪に宿る決意
扉をくぐると、ひやりとした紙の匂いが肺の奥まで降りてきた。さっきまでいた路地裏の熱気も、香辛料の名残も、この部屋の敷居でふっと切れる。酒場のざわめきが遠い夢みたいに思えるほど、ここには静寂だけが満ちていた。
一階のリビングは、本の迷宮だった。床から天井まで積み上げられた書物と書類の塔が、行く手を細く切り取っている。乾きかけた紙の匂いと、古いインクの鉄っぽい残り香。雑然としているというより、思考が物質化して積もり重なったような光景だ。
背文字の列が壁をなし、外界とわたしたちを隔てる「知の城壁」の内側に、ようやく辿り着いたのだと体が理解していく。
カテリーナは、通り道をつくるように紙束を片足で押しやりながら歩き、デスクの端にあった古びた酒瓶を手に取った。指先が迷いなくラベルの擦り切れた縁を撫で、慣れきった所作でグラスを三つ並べる。
琥珀色の液体が注がれると、とくとくという小さな音が、深夜の静寂にだけくっきりと浮かび上がった。
「……さて、と」
グラスを置いた彼女の声が、合図のように空気を締め直す。肘をデスクに預け、こちらへ向けた眼差しには、世間話を終わらせる鋭さがあった。その視線が、真正面からわたしを捕らえる。逃げ場をふさがれた、というより、もう逃げないと自分で決めたあとの静かな覚悟が、腹の底でゆっくり据わっていく。
わたしは頭に手をやる。緑色のウィッグを固定していたピンの位置を指先でたどると、冷たい金属が頭皮越しにこつりと触れた。
カチリ。
硬質な音がひとつ、部屋の奥まで透き通って飛んでいく。ピンを外すたび、締め付けられていた生え際に、じん、と血が戻る。少しひりつく感覚と、そこへ入り込む紙の冷えた空気。
もう一つ、また一つと留め具を外していくあいだ、こめかみの内側までじわりと熱が満ちていった。
最後のピンを髪から抜き、わたしはそっと息を止める。ウィッグの端をつまみ、頭皮を傷めないよう気を配りながら、ゆっくりと持ち上げた。
張り詰めていたネットが外れる。その瞬間、頭皮全体がふっと緩み、押し込められていた「わたし」が、殻の内側からあふれ出した。
重力に従って流れ落ちたのは、闇夜を溶かしたような漆黒。母譲りの、濡れたような艶を宿した黒髪が、肩から背中へと滑り落ちる。長く閉じ込めていたせいで、ひと房ひと房が空気を吸い込みながら、ゆっくりとふくらんでいった。
緊張と解放が一度に押し寄せ、わたしは深く息を吐いた。吐息に合わせて前髪が揺れ、その隙間から、真正面のカテリーナを見上げる。
彼女は、息を呑んでいた。
グラスを持つ手が空中でぴたりと止まり、その指先にかすかな震えが走る。薄く開いた唇がなにかを言いかけて、けれど声にはならなかった。瞳の奥で何かがほどけるように揺れて、わたしではない誰かの姿をそこに重ねているのがわかる。
「……なるほどね」
漏れ出た声は、独り言のように低く、喉の奥で震えていた。
「瞳の色にしてもそうだが……髪を下ろすと、まるで生き写しじゃないか。姿をくらました当時のメイレア王女が、そこに座っているのかと思ったよ。もっとも、私が知っているのは、色塗りの詳細な人相書だがね」
メイレア――母の名を聞いた瞬間、胸の内側がきゅっと狭くなる。
カテリーナは一度瞬きをして、それからゆっくりとグラスをデスクに置いた。指先が縁から離れるまでのわずかな間、視線はわたしの輪郭を追いながら、どこか遠い一点を見ていた。懐かしさと、痛みと、祈りのような感情が入れ替わっていくのが、ランプの灯に揺れる彼女の睫毛の影で伝わってくる。
「ただ……その眉間の強情そうな皺だけは、どうやらユベルに似ちまったみたいだね」
冗談めかした言葉。けれど、口元に浮かんだ笑みは、どこか痛みを噛み殺すような形をしていた。グラスの縁越しにまっすぐわたしを射抜く瞳は、冗談に逃げてはくれない。
「そうかもしれません……」
唇の内側を軽く噛み、言葉の形を確かめるように、一度だけ息を溜める。その小さな間に、迷いと恐れをできる限り削ぎ落としていく。膝の上で指先が白くなるほど握りしめていることに、自分でようやく気づいた。
「見ての通り、母の特徴ばかりを受け継いでいるのかもしれません。けれど、わたしの父はユベル・グロンダイルです。この血が、そう告げています」
口にした瞬間、その言葉が腹の底へ重しみたいに沈み込んだ。逃げ道を塞ぐ錨のように、世界とわたしを繋ぎ止めてしまう。震えそうになる声を、爪が掌に食い込む痛みで必死に支える。
カテリーナは目を細め、グラスを持たない方の手で静かに腕を組んだ。長い指先が二の腕を軽く叩き、何かを測るように沈黙が落ちる。やがて、満足そうに唇の端を吊り上げた。
「いい目だ。その芯の強さは確かに父親譲りだよ。あんたはユベルの娘で間違いない」
その肯定は、そっと胸に落ちる灯火のようだった。同時に、"英雄の血""王女の面影"という見えない重さが、肩口から静かに積もっていく感覚もあった。器の大きさを問われているのは、いつだって自分だ。背筋を伸ばし直し、その重さを受け止める姿勢をつくる。
沈黙を守っていたヴィルが、不意に身じろぎした。
椅子の背にもたれていた肩を起こし、手にしたグラスの中の琥珀色を見つめたまま、指先でほんの少しだけ液面を揺らす。
「……剣を交えた俺が保証する」
低く、地を這うような声。顎を引いたまま、視線はグラスに落としている。
「太刀筋の鋭さ、足さばきと踏み込みの癖……そして何より、何度折れそうになっても立ち上がろうとする強固な意志。剣を通して伝わってくる『魂の形』は、確かにあの男の系譜だ」
「剣を通して伝わる」という言葉に、耳の奥がじんと熱くなる。
戦場で交わされたもの――血と汗と、命を賭けた瞬間にしか見えない相手の輪郭。その記憶に、今のわたしの姿が静かに重ねられているのだと思うと、瞬きを何度か繰り返さなければ、視界が滲んでしまいそうだった。
それでも、ヴィルはわたしを見ない。視線はグラスの中に落としたまま、横顔だけがこちらを向いている。頬骨のあたりにランプの光が薄く当たり、その陰影のなかに、かつての戦友への敬意と、それを継ぐわたしへの不器用な信頼が滲んでいた。
カテリーナが、ふっと相好を崩す。目尻に細い皺が寄り、その奥に柔らかな光が灯った。
「剣でしか伝えられない"言葉"がある……ユベルもよく、そんなことを言っていたね」
「ああ……剣は裏切らんからな」
ヴィルが短く応じる。グラスを口元へ運びかけて、けれど唇には触れずに止めた。
二人の視線が、グラス越しに交錯する。その一瞬、部屋の温度がすこしだけ変わった気がした。
紙とインクの匂いの向こう側で、わたしの知らない「あの日々」の空気がひそやかに流れ込んでくる。そこには、言葉にしきれない喪失と、それでもなお輝きを失わない記憶の残照がある。
やがてカテリーナは、感傷を振り払うように軽く肩をすくめた。背筋を伸ばし、デスクに両手をつく。眼差しには冷静な光が戻っている。
「さて……どこから話そうかね。あたしが知っていることなら、洗いざらい話すつもりさ。もっとも、知らないほうが幸せなこともあるかもしれないが」
試すような響き。甘やかさをすべて剝ぎ取った声音が、これから開く扉の重さを教えてくれる。喉がひりつくほど乾き、舌の裏側に唾が降りてこない。ここでうなずけば、もう二度と無邪気な子供のままではいられない。
それでもわたしは、膝の上でそっと拳を握りしめた。爪が掌の肉に食い込み、小さな痛みが一点の軸をつくる。その痛みを頼りに、わたしはカテリーナの瞳をまっすぐに受け止めた。
「心配無用です。わたしには、どんな真実であろうと受け止める覚悟があります。……それが、ユベル・グロンダイルの娘である、わたしの務めですから」
声の端に、微かな震えが混じった気がした。けれどそれは、恐怖だけの震えではない。自分で自分の歯車を回そうとする、高揚と決意が混ざり合った震えだった。
カテリーナは数秒間、黙ってわたしの瞳の奥底を覗き込む。
その時間の長さに、背筋を伝う汗が冷たくなっていく。彼女の睫毛がかすかに揺れ、何かを確かめるように一度だけ瞬きをした。やがて、ふわりと笑った。
「その口上……大した子だよ、あんたは」
短い一言が、きつく縛られていた肩の強張りを、そっと緩めていく。
ヴィルが琥珀色の液体を静かに揺らし、ぽつりと零した。視線は相変わらずグラスの底を見つめている。
「覚悟なんて言葉、そう簡単に口にするもんじゃない。……だが――」
そこで言葉を切り、彼は初めて真正面からわたしを見た。顎を上げ、正面を向いた顔がランプの光を受ける。その瞳は、深い湖のように静かで、こちらの震えも迷いも全部映し出してしまいそうだった。
「こいつの強さも弱さも、俺はこの数ヶ月で嫌というほど目の当たりにしてきた。ハムロ渓谷の真実に向き合い、理解し、すべて呑み込んでみせた。その上で……認めざるを得ない」
言葉以上の信頼を真正面から突きつけられて、視線が耐えきれずに滑り落ちる。頬が内側から熱くなり、睫毛の先がかすかに震えた。
カテリーナが驚いたように眉を上げ、一瞬だけ目を見開いた。それから、なにか懐かしいものを見つけたように、ゆっくりと目を伏せる。
「……そうかい。あれを見たのか」
それから可笑しそうに喉を鳴らす。唇の端が意地悪く吊り上がった。
「あんたがそこまで言うとはね。明日は槍でも降るんじゃないかい?」
「……うるさいぞ」
ヴィルがバツの悪そうに顔をそらす。グラスを口元へ運び、ぐいと呷った。その耳朶がほんのり赤く染まっているのを、わたしは見逃さなかった。
さっきまで腹の底を締め付けていた重さが、少しだけ軽くなっていく。
紙とインクの匂いが満ちる部屋。過去と現在が静かに重なり、そのさらに先に、まだ形の見えない未来の気配が横たわっている。
わたしは胸に手を当て、早くなった鼓動をそっと確かめた。どんな真実が待っていようとも、『かつて父と肩を並べたこの二人が隣にいてくれるのなら』――その思いが、黒髪の根元から足先まで、ゆっくりと沁み渡っていく。
顔を上げる。運命の扉が開く気配を、息を整えながら静かに待った。




