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静かな会話の中で揺れる想い

 胃の腑が満たされ、心地よい弛緩が指先まで行き渡った頃、カテリーナが店主に合図を送った。


「ここに来て、あれを飲まずには帰れないね。店主、『香辛酒』を頼む」


 心得たように店主が奥から取り出したのは、滑らかな曲線を描く陶器の壺だった。封じられたコルクが抜かれると、ポン、と軽快な音が湿った空気を揺らす。傾けられた注ぎ口から、とろりとした粘度のある琥珀色の雫が垂れた。


 その瞬間、濃厚な甘さと焦がしたスパイスの刺激が混じり合い、卓上の空気を一瞬にして異国の夜へと染め上げた。


 目の前に並ぶ三つの杯。液面はランプの灯りを吸い込み、宝石めいて妖しく、とろりと揺らめいている。


「『香辛酒』……シェリアンでは、魂の結びつきを祝う席で振る舞われる酒さ」


 カテリーナが杯を掲げ、悪戯っぽく、けれどどこか厳かな眼差しでわたしたちを見た。眼鏡の奥の瞳が、ランプの揺らぎを映して濡れたように光る。


「あっちの言葉じゃ『乾杯』とは言わない。シェリアン流に――『チエリ』ってね」


 わたしとヴィルも、儀式に臨むように杯を持ち上げる。


「チエリ」


 三つの杯が触れ合うことなく、静かに掲げられた。


 唇を濡らす。舌先に触れた瞬間、蜂蜜を煮詰めた濃密な甘みが広がった。とろりとした液体が舌の根を撫で、喉の奥へと滑り落ちていく。


 喉がゆるんだ途端――カッ、と熱い火花めいた辛味が駆け抜けた。


 舌の奥がちり、と弾けるように痺れ、身体が小さく跳ねる。


《《ん……っ、なにこれ。甘いのに辛い。あ、熱い……!》》


「……刺激的」


 茉凛の声とわたしの吐息が重なる。食道から胃にかけて、小さな灯火がともり、熱が残った。その熱はすぐに血液に乗って全身を巡り、指先をじわりと痺れさせた。


「これはただの果実酒ではありませんよね。あとから追いかけてくる熱……もしかして香辛料ですか?」


 火照る頬を自覚しながら尋ねると、店主が嬉しそうに頷いた。


「ええ。『カラリ』という木の実のエキスを加えています。そのまま齧れば舌が痺れるほどの刺激ですが、酒に溶かすと不思議と角が取れ、甘みを引き立てるのです」


「カラリ……」


 異国の響きを口の中で転がす。カテリーナが琥珀の液面を見つめながら補足した。


「真っ赤で可愛い実なんだけどね、中身は強烈にスパイシーさ。見た目に騙されると痛い目を見る……まるで、どこかの誰かさんみたいにね」


 彼女は意味ありげに笑うと、くいと酒を煽った。


 ヴィルは何も答えず、ただ静かに杯を傾け、香りごと記憶を飲み込むように味わっている。喉仏が動き、ほう、と熱い息を吐いた。


「……悪くない。この国で、これほどのものが飲めるとはな……」


 彼なりの最上級の賛辞だった。


 わたしも二口、三口と進める。甘さと辛さが交互に押し寄せ、意識の輪郭が心地よく溶けていく。店内の喧噪が遠ざかり、自分の心臓の音だけがトクトクと耳元で響く。異国の風、見知らぬ街の匂い、そしてこの路地裏の静寂――すべてが杯の中で混ざり合っていく気がした。


「これが、お二人の故郷の味……」


 独り言のように漏らすと、店主の眼差しがふわりと緩んだ。


「ええ。私たちにとっては帰る場所の味です。それをこうして、遠い異国の夜に分かち合えることが何より嬉しい」


 その言葉の温かさが、酒の熱と共にみぞおちの奥深くに染み渡った。


◇◇◇


 カテリーナが空になった杯の縁を、指先で愛おしげになぞる。


「どうしたんだい、ヴィル。今夜はずいぶんとまぁ、借りてきた猫みたいじゃないか」


 からかうような響きだが、その瞳は狩人めいて鋭く、彼の内面を覗き込んでいる。


 ヴィルは視線を上げない。ただ、杯の底に残った琥珀のおりを、何か大切な遺物めいて見つめていた。


「いや……少し、昔を思い出していただけだ」


 ぽつりと落ちた言葉には、いつもの皮肉も防壁もない。ただ、剥き出しの思索だけがあった。


 カテリーナは片方の眉を上げ、口元に微かな苦笑を浮かべる。


「昔、ね……」


 その言葉のリフレインに、二人の間にだけ流れる時間の重みが垣間見えた。


 それは、わたしが決して触れることのできない、分厚い硝子ガラスの壁の向こう側にある景色だ。


 入る隙間のない、濃密な沈黙。二人の視線が交わらずとも、呼吸のリズムが同調しているのがわかる。それが、たまらなく寂しかった。杯の縁に残る熱が指先へ貼りつき、舌が勝手に前へ出ようとする。


「あの……」


 言葉が、勝手に転がり出る。


「なんだい?」


 カテリーナが猫のような瞳をこちらに向けた。ヴィルの視線も、ゆっくりとわたしへ向く。琥珀色の酒に濡れた唇が、言葉を待っている。


「こんなこと、聞いてもいいものなのかどうかわかりませんが……お二人は、その、昔……」


 視線が行き場を失い、二人の間を彷徨う。心臓がうるさい。


「どんなご関係だったんですか? 例えば……お付き合いしていたとか」


 言い終えるや否や、カテリーナが派手にむせ返った。


「ぶっ……! げほっ、げほっ!」


「だ、大丈夫ですか!?」


 慌てて背中をさすろうとするわたしを、彼女は涙目で手を振って制した。


「い、いやあ……まったく! あんた、いきなり何を言い出すかと思えば!」


 咳き込みながらも漏れ出る笑い声。そこには呆れと、そして予想外の問いに対する照れ隠しのような色が混じる。彼女は眼鏡の位置を直しながら、呆れたようにヴィルを指さした。


「いいかい、よくお聞き。誰が好き好んで、こんな朴念仁と付き合うもんか! 今でこそすました顔をしてるけどね、昔のこいつは手がつけられないほどの馬鹿だったんだからね!」


 間髪入れず、ヴィルが低く唸るように返した。


「……相変わらず、口の減らない女だ」


「否定できるのかい? あんた」


 挑むようなカテリーナの視線を受け、ヴィルは短く息を吐き、そしてゆっくりと首を横に振った。


「……否定はせんさ。あの頃は俺も若かった。お前も――そして、“あいつ”もな」


 ふと、場の空気が変わった。


 カテリーナの笑顔が、凪いだ水面めいて静まる。


「そうだね……あの頃は、毎日が祭りみたいだった。三人で朝まで馬鹿騒ぎして、世界中を敵に回した気になって。できもしない夢を語り合ってさ……」


 彼女の瞳が、ここではない遠い場所を見ている。そこには、わたしの知らないもう一人の誰かがいるのだ。


 懐かしさと、二度と戻らない季節への鎮魂レクイエム。肋の裏が締め付けられるような切なさが、その横顔に漂っていた。


《《三人……そっか。きっと、ミツルのお父さんのことだね》》


 茉凛の囁きに、胃の底がずきりと痛んだ。


 わたしの知らない父ユベルの姿。若く、無謀で、そして彼らと共に笑っていただろうその幻影が、二人の間の空気を作り出している。わたしはその残像を追いかけているだけなのかもしれない――そんな弱気な思考が、酔いと共に頭をもたげる。


 テーブルに落ちた影が、ゆらりと揺れた。


「……感傷に浸るのはここまでだ」


 ヴィルが硬質な声で空気を断ち切る。


 口の中に残った甘い熱が、いきなり遠のいた気がした。


「俺が入国した事実は、いずれ“上”の耳にも入るだろう。カテリーナ、お前の情報網で何か掴んでいることはないか?」


 瞬時に切り替わる気配。そこにあるのは、甘酸っぱい追憶ではなく、生死を潜り抜けてきた者たちの冷徹な呼吸だった。カテリーナも頷き、鋭い商人の顔に戻ってわたしを見た。


「ミツル。あんたの事情については、こいつの手紙である程度把握してる。でも、詳しい話はここじゃあまずい」


 彼女は声を潜め、周囲を警戒するように視線を走らせた。


「ねぐら……いや、家に帰ってからにしよう。夜風に当たりながら、酔いを醒ますといい」


「は、はい……」


 居住まいを正して頷く。先ほどまでの温かな空気は霧散し、目に見えない糸がぴんと張り詰めるような緊張感が漂い始めていた。


 店を出ると、夜気は驚くほど冷たかった。石畳から立ち上る冷気が、火照った足首に絡みつく。見上げれば、細い月が白亜の建物の隙間に鋭く光っていた。


 わたしはヴィルの背中を見つめながら歩く。その背は頼もしく、けれどどこか孤独に見えた。


 杯に残った最後の一滴――甘くて辛い後味だけが、まだ舌の奥でちりちりと生きている。


 知らないことばかりだ。その重さが、夜気より冷たいまま、酔いの底へゆっくり沈んでいった。

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