異国のパンフレットと新たな出会い
中央大陸の最南端に位置するリーディス王国は、建国から一千年を数える。南に海を抱き、交易と港の富で膨らみ、いつしか大陸随一の大国として名を通してきた。
白銀の塔が海風を受ける――海の都、王都リーディス。白亜の城壁は日を受けてやわらかな光を返し、遠景の一点に立つ主塔が、旅人の方角になっている。
南の内湾には大港が口を開けている。石造の倉庫と取引所が肩を並べ、古びた樽の木の匂いに潮の気配が絡みつく。帆綱の軋みが旅情を誘い、商船の甲板では異国語が音楽みたいに軽やかに交わっていく。
東は活気ある漁港。朝もやの中で銀鱗が跳ね、焼き網から立ち上る脂の焦げた香ばしさに、思わず足が止まる。市場では包丁が板を叩くリズムが響き、威勢の掛け声が波打ち際まで届く。
中央市場は色の奔流だ。熟れた真紅のトマト、深い紫の茄子、艶やかなパプリカ。香辛料が通路に濃厚な芳香を撒き散らし、鍋の油が小気味よく弾ける――文字通り「大陸一の美食の街」は、喧騒という音と、鼻腔をくすぐる匂いで実感へと変わる。
二本の大河が街を血管のように渡り、整えられた水路が生活を潤す。上下水道は清潔を守り、地下水は公園と果樹園の緑を深くする。六つに区画された街区は区長と住民有志が手分けして清掃を担い、洗われた石畳と花壇の列に、歩く人の表情もほどけていく。
王宮近くの王立魔術大学では、最先端の魔術と魔道具が研究の只中にあるという。夜になれば窓明かりが星のように点々と浮かび、古代魔術の資料が静寂の中でめくられていくのだろう。石の街並みには画家や奏者が集い、角の建物から弦の練習音が細く、切なく漏れる。
食の都を彩るのは多様な食材と香辛料、そして古文書に残る古文明のレシピの再現。伝統に新しい手つきが重なり、食卓はたえず更新されていく。
守りも大陸屈指。城壁と港を要に、門の検問と街路の巡察を昼夜交替で敷き、異国の客人にも不審の影にも目を怠らない。王宮周辺の歩哨は静かに重ねられ、緊急時には部隊間の連絡が一息で繋がる。
白い王宮、歴史を刻む石の景観、弧を描く海岸線、美食の香り。潮騒と市場の喧騒、夕刻に茜色へ染まる王宮の輪郭が、再訪の衝動をやさしく、けれど確かに残していく。
◇◇◇
王都リーディスを紹介するパンフレットの冒頭を読み終え、わたしは素直な感嘆を漏らした。紙が指先の汗をひそかに吸って、すべすべした感触だけが妙に生々しい。
「へーっ……」
手の中にある紙片から、鮮やかに描かれた街の極彩色が目に飛び込んでくる。この世界に「観光パンフレット」などという浮かれた代物が存在すること自体、どこか現実味がない。けれど、安っぽい紙の肌と、浮世めいたインクの匂いが、鼻の奥をむずがゆく擽った。
全体図のページをめくる。白と青のインクで織りなす都市の地形図。丘の上に鎮座する王宮、南の港、中央の市場――紙の上で、都市が生き物のように静かに呼吸している気がした。インクの匂いに混じって、幻聴のような潮騒が鼓膜の奥でざざ、と重なる。
気分が弾む一方で、冷たい水のような不安が足元に滲んでいく。この華やかな光景の裏側、足を踏み入れた先で、想像以上の何かが口を開けて待っているような予感。
《《これは探検し尽くすのは骨が折れそうだね。まずは観光名所に狙いを定めて回るべきかも》》
茉凛の明るい声が、頭の中に直接響く。わたしは強張っていた頬を無理やり緩めたが、胃の底に沈んだ小さな重みまでは消せなかった。
「お上りさん状態だし、それが無難ね……」
努めて軽く返す。だが、声に乗せたはずの明るさは、緊張の芯を溶かしきれない。
パンフレットの端を撫でる指先に、知らず力がこもる。茉凛の無邪気な好奇心は、いつだってわたしを救ってくれる光だ。彼女の透明な声は、のしかかる重石を少しだけ軽くしてくれる。
けれど、この街で待つのは、物語みたいに気持ちの弾む出来事ばかりとは限らない――そんな形を持たない不安が、舌の裏にじわじわと苦く残っている。
「といっても見どころ満載すぎて、どこから回ろうか迷っちゃうな……」
自分の声が少し上ずっているのを自覚する。それを誤魔化すように、紙面の色へ視線を落とし直した。
《《見知らぬ街ってワクワクするね。きっと何かおもしろいことが待ってるはず!》》
その無邪気さが愛おしく、そしてほんの少し、羨ましい。わたしは微かなため息を、誰にも気づかれないよう喉の奥で飲み込んだ。この街には、かつて父やヴィルが身を置いたという「銀翼騎士団」の記憶が眠っている。
視線が「銀翼騎士団」の文字の上で止まり、わたしは反射的に紙を強く押さえた。
『我が国が誇る王家直下の即応騎士団。二百年を超える歴史を持ち、左翼と右翼、銀の片翼同士が寄り添い、ひとつの翼となる。選り抜かれた最精鋭で編成され、装備は常に更新され、整備は常に行き届く。命が下れば迷いなく動き、画期的な戦術を幾度も生み出し、数多の戦場でその名を轟かせた。』
あまりに明るい紹介文ほど、裏側の影が濃く感じられてしまう。
パンフレットに誇らしげに記されたその文字列を目でなぞるたび、誇りと一緒に、古傷のような痛みがせり上がる。華やかな王都の石畳の下には、目に見えない危険や政治的な思惑の網が張り巡らされている――わたしは前世的な視点から、それを予想できてしまう。
「呑気に観光ってわけには、いきそうにもないかな……」
ぼそりと呟くと、喉の奥が乾いて鳴った。言葉にした途端、冷たい波みたいな不安が押し寄せるが、茉凛の声が少し真剣みを帯びた。
《《あ、そうだ。泊まる場所はどうするの? まだ決めてなかったよね?》》
はっと我に返る。現実の段取りに逃げ込めば、舌の裏に残っていた苦さが一瞬だけ薄れる。
「そうだった……。ねぇ、ヴィル? 宿はどうするの?」
不安を隠しきれないまま、隣を歩く長身の男を見上げる。歩幅が外れていない、それだけを確かめたくて、視線が吸い寄せられてしまう。
《《そりゃあもう。お金はたんまりあるんだから、ここは五つ星クラスの最高級ホテルでしょ!》》
「こら、茉凛! 調子に乗らないの」
思わず腰に帯びたマウザーグレイルの柄を、指先でぽんと叩く。
「えーっ……!? なんでなんで!?」
「だいたい、“ここ”にそんなものあるわけないでしょうが。それと、装備を買い揃えたり、情報だってタダというわけにはいかないだろうし、いろいろ入り用になるの。そのくらいわかるでしょ?」
豪奢な宿は肌に合わないし、これからの旅路を思えば無駄遣いはできない。この先どんな困難が待ち受けているのか、まだ霧の中なのだから。
わたしたちの、傍目には独り言に見えるやり取りを見て、ヴィルがわずかに口元を緩めた。彼には茉凛の声は届かないはずだ。けれど、わたしの表情や間の取り方だけで、彼はすべてを察してくれている。その穏やかさが、今は少しだけ痛い。
「それについては心配するな。俺にあてがある。古くからの知り合いの家があってな。そこに世話になろうと思う」
わたしは思わず目を見開き、すぐ困ったように唇を尖らせた。
「……え、人の家に泊まるの? 気を使いそうで、正直少し気が重いな」
見知らぬ誰かの家に厄介になる。相手に迷惑をかけまいと気を張り続ける時間は、胃のあたりの緊張を増幅させるだけだ。わたしはパンフレットを折り畳み、指先で角を揃える。きちんとしていないと、心まで崩れそうで。
ヴィルは肩をすくめ、諭すような落ち着いた声で言う
「そう言うな。街外れの一軒家で目立ちにくいし、すぐそばに馬を預けられる馬繋場もある。俺たちの拠点としては理想的だ」
馬繋場、という言葉に、スレイドのつぶらな瞳が脳裏に浮かぶ。長い旅を共にしてきた、口を利かぬ大切な相棒。遠く離れた馬小屋に置き去りにはしたくない。彼の温かい気配がすぐそばにあるだけで、わたしもどれだけ救われるか。
《《そっか。それもそうだね。スレイドも、きっとそばにいてほしいって思ってるよ》》
茉凛の言葉が、強張った心をゆっくりとほぐしていく。
一方で、癖みたいに冷たい理屈が走った。舌の裏に残る苦さが、いまだけ薄くなる。
――町外れなら、視線の密度が薄い。スレイドが近ければ、退避の自由がある。
正しい。けれど、その正しさだけでは説明のつかない何かが、ヴィルの言葉の間に混じっている。
「……じゃあ、そこにしよう。スレイドはわたしたちの大切な仲間だもの」
「決まりだな。では、行こうか」
ヴィルの穏やかな笑みに、わたしは小さく頷いた。その笑みが、不安の輪郭を静かに薄めてくれるのを信じて。
◇◇◇
西の町外れ、第六地区の住宅街。その家は、琥珀色の静けさの中にひっそりと佇んでいた。
賑やかな中心街から離れ、ここだけ時間の歩幅が半分になったような空気が漂っている。木造二階建てが整然と並び、庭のハーブや名もなき花々が風に揺れて、家々の表情をわずかに違えていた。遠くで犬が吠え、近くではどこかの窓から食器が触れ合う生活の音がする。
ふっと、安堵の息がもれる。ここなら、ひとまず落ち着けそう――そう思った矢先だった。玄関先に立つ細い人影を認め、胃がきゅっと縮む。
丸い眼鏡をかけた、背の高い女性。三十代半ばほどだろうか。薄く結んだ唇は、何かを拒絶するようにきゅっと引き締まっている。灰を帯びた髪をぴしりとまとめ上げ、どこか異国風の装いが彼女に硬質な印象を添えていた。
衣から、乾いた石鹸の匂いがした。それなのに、レンズの奥の瞳は冷たく正確で、見据えられるだけで、脈の打ち方まで測られていく気がする。わたしは反射的に背筋を正した。
心臓の鼓動が、早鐘を打つように耳奥で大きくなる。周囲の空気がひやりと冷え、喉の奥が乾いた音を立てた。
「……久しぶりね、ヴィル。まさか本当に来るとは思わなかったわ……」
その声には、歓迎の色はなく、呆れと諦めが澱のように混じっていた。肩がこわばるわたしの横で、ヴィルはいつもの穏やかな微笑みを崩さない。まるで春風が氷壁を撫でるみたいに。
「やあ、カテリーナ。相変わらず元気そうだな」
彼女は眉根を寄せ、すぐに鋭い眼差しへと戻った。その瞳には長い年月の重みと、簡単には解けない感情のしこりが見え隠れして、肋の裏を試すように刺してくる。
「まったく、何年も連絡を寄越さないから、どこかでくたばったかと思ってたよ」
苛立ちとも、憎まれ口という名の親愛ともつかない調子。わたしは金縛りにあったように動けないが、ヴィルは肩をすくめ、揺るがない。
「いつものことだろう? だいたい、俺がそう簡単にくたばると思うのか?」
「ふん、あんたがしぶといのは知ってるさ。なにせ雷光だし、攻めるも逃げるもすこぶる速い」
「言ってくれる」
「ふん」
カテリーナは鼻を鳴らしてから、不意にわたしへ視線を移した。その眼差しが内側まで射抜くようで、喉がひりつく。反射的に身体が固まる。値踏みされている。
「でもね、急に手紙を送りつけたかと思えば、こんな小さな子を連れて、いったいどういうつもりだい?」
――“小さな子”。
そう呼ばれることには慣れているはずなのに、この人の口から発せられると、みぞおちの奥がじくりと痛んだ。子供扱いされたからではない。その言葉の裏に、「危険な世界に足を踏み入れる資格があるのか」という問いを感じたからだ。
ヴィルはわたしを一瞥してため息をつき、やわらかく肩をすくめる。
「見た目に惑わされない方がいい。実力も度胸も、この俺が保証する」
その一言に、じわりと温かさが広がる。
けれど、カテリーナの瞳から疑いの色は消えない。再び緊張が背筋を這い上がる。それでも、ここで視線を逸らせば逃げることになる。わたしは震えそうな膝に力を込め、精一杯の勇気を振り絞って頭を下げた。
「はじめまして、カテリーナさん。わたしミツルといいます。この度はお世話になります」
しばしの沈黙。
庭の虫の音が、やけに大きく聞こえる。彼女は長く息を吐き、能面のように硬かった表情を、ほんの少しだけ緩めた気がした。
「まったく、面倒事は抱えたくないんだがね……。まあ、ヴィルが認めてるっていうなら仕方がない。入りなさい。ただし、ルールは守ること。気に入らなきゃ、すぐ放り出すからね」
「はい。ご迷惑にならないよう、注意します」
厳しい言葉の響き。けれどその奥底に、突き放しきれないかすかな体温を感じる。
茉凛が心の中でくすくす笑い、強張っていた身体の芯が、ほんの少しだけほぐれていくのを感じた。
《《厳しそうだけど、きっと悪い人じゃないよ。なんせヴィルの知り合いなんだし》》
その囁きに、尖っていた不安の角がひとつ削れた気がする。
わたしは小さく頷き、この静かな家で始まる新しい日々へ、気持ちの帯を締め直した。




