王都リーディス
城門という名の境界をくぐり抜けた瞬間、世界の色調が一変した。背中に張りついていた緊張が、潮の匂いを含んだ風に撫でられ、ほどけていく。
視界を埋め尽くすのは、白い街だった。石灰岩の石畳が陽光をたっぷり吸い込み、踏みしめる靴底へじんわりと熱を返してくる。家々の壁は淡いクリーム色で、窓辺にはブーゲンビリアの赤が絡まり、青い空を背景に燃えるように鮮やかだった。
南からの海風が吹くたび、花弁が光の粉のように舞い散る。乾いた木枠がきしみ、花箱からこぼれる甘い香りが鼻先をくすぐった。
その甘さに紛れて、いくつもの視線が若緑の髪へ落ちてくるのを感じた。隠したのは黒髪であって、目立たなくなったわけではない。若緑はこの都では、ただの色ではないのだ。
路地の角で果実を並べていた女が、手を止めた。目がわたしの髪を追い、それから顔を確かめるように瞬きをする。
「……メービス様の」
小さな囁きが、潮風にほどけて消えた。盾にしたはずの色が、別の物語の扉を叩いてしまう。
街全体が、祝祭の熱を孕んで脈打っている。レースの裾を翻す貴婦人たち、瑞々しい果実を掲げて声を張り上げる商人、革鎧の冒険者が背負う剣の鋭い瞬き。どこからか弦楽器の爪弾きが聞こえ、人々のざわめきと波音、スパイスの刺激と焼き立てのパンの香ばしさが渾然一体となって、五感を隅々まで満たしていく。
肺の奥まで広がる、圧倒的な「生」の気配。わたしは立ち止まり、抜けるような青空を見上げた。
《《うわぁ……》》
茉凜の声が、ため息のように脳裏に響く。
《《なにこれ……まるで映画のセットの中に迷い込んだみたい。『ニュー・シネマ・パラダイス』? それとも『紅の豚』? アドリア海?》》
「……わたし、そっちの方面はあまり詳しくなかったりするんだよね」
かすれた声で返す。でも、この感覚は知っている。山奥の柚羽家の書斎で何度もページをめくった、あの写真集の景色。地中海沿岸、白い壁と青い海、光に満ちた街並み――紙の上でしか見たことのなかった世界が、今、足の裏から、肌から、匂いから、わたしの中へ流れ込んでくる。
《《あ、そっか。美鶴は本派だったもんね。ごめん》》
「ううん、気にしないで。でも、本で見た写真より、ずっと……眩しいわ」
言葉が追いつかない。活字で読んだ「陽光」も「潮風」も、こんな重さを持っていなかった。
《《ほんと、びっくりだよ。まさか異世界でこんな風景に出会えるなんてさ》》
「……ずるいわよね、こういうの」
笑いながらも、視線はまた無意識にヴィルの横顔へ戻ってしまう。声が聞こえる場所を、身体が先に覚えているようで。
「どうだ。初めて目にした王都の感想は?」
スレイドの手綱を引くヴィルが、穏やかな声を投げかけてくる。その横顔には、この街を長く見守ってきた者の、静かな誇りが滲んでいた。
「とても……明るくて、あたたかい。光の粒が海風に乗って、体の隅々まで染み込んでくるみたい。」
言葉にしようとすると、どうしても零れ落ちてしまう感覚がある。ヴィルはわたしの拙い表現を拾うように口元を緩め、前を見据えた。
「お前らしい言い方だな。ここに都が拓かれたのは千年以上も前だと聞く。路地裏の石一つにまで、その歴史が染み込んでいる。歩くだけで、無数の物語とすれ違うことになるぞ」
「物語……」
その響きに鼓動が跳ねるのと同時に、腹の虫が可愛らしく鳴いた気がして、わたしは思わずお腹を押さえた。
ヴィルがくくと喉で笑う。その短い音だけで、奥の固い結び目がひとつ緩むのを感じた。
「冒険は自らの足で探すものだが――まずは腹ごしらえが先決だな」
◇◇◇
広場の角、石造りの回廊に面したカフェのテラス席。わたしたちは鮮やかなストライプのパラソルの下へ滑り込み、午後の熱を凌ぐことにした。
木製のベンチは日陰にあっても微かに温かく、ささくれだった肘掛けの感触が、旅の終わりと日常の始まりを告げている。ヴィルが腰を下ろす動きに呼吸が合って、わたしも同じ拍で座ってしまう。
差し出されたメニューは厚手で、指に吸い付くような重みがあった。そんな些細な紙一枚にも、この王都の豊かさが窺える。
焼きたての果実タルト、朝獲れの魚介、香草のソース――踊る文字を目で追うだけで、空腹が加速した。
《《うーん、全部食べたいっ! でもでも、まずは甘いものからいこうよー!》》
「もう、茉凜ったら」
剣からの無邪気な催促に、思わず独り言が漏れる。向かいの席で、ヴィルが面白そうに目を細めた。
「ずいぶん楽しそうだな。また、あの“騒がしいお嬢さん”が何か言ってるのか?」
「ええ、『甘いものが先だ』って。順序がおかしいでしょう?」
「ははっ、違いない。ま、王都の甘味はどれも格別だからな」
ヴィルの肩から力が抜け、張り詰めていた騎士の顔が、一人の男のそれへと緩む。彼は通りがかったウェイターを呼び止め、慣れた口調で冷えた白ワインを注文した。
その何気ない仕草に、ふと視線が吸い寄せられる。
日焼けした大きな手。節くれだった指の背には、いくつもの白い古傷が歴史のように刻まれている。けれど、ワイングラスの細い脚をつまむ指先は、壊れ物を扱うときのように優しく、どこか洗練されていた。
武骨さと気品。相反する要素が同居するその指先を追ってしまうのは、惹かれるからというより、確かめたいからなのかもしれない。そこに在る、と。
「さて、お前は何にする?」
わたしの動揺など露知らず、ヴィルがメニュー越しに問いかけてくる。わたしは慌てて視線を落とした。
「そうね、ハーブチキンと……その、わたしもワインを一杯だけもらおうかしら」
注文を終えると、テーブルにはまた穏やかな静寂が戻ってきた。中央に活けられた青紫の花が風に揺れ、その影がヴィルの手元をゆっくりと横切っていく。
「……不思議ね。ここにいると、魔獣の脅威なんて嘘みたいに思えてくる」
「ああ。だが、この平穏こそが俺たちが守るべきものだ」
ヴィルがグラスを掲げる。琥珀色の液体が陽光を透かしてきらめき、彼の瞳と同じ色に輝いた。
「旅の無事とこの瞬間に。……乾杯だ」
「乾杯」
グラスの縁が指腹に冷たく貼りつき、肋の裏の鼓動だけがひとつ先に跳ねた。
薄いガラスが触れ合い、涼やかな音色が風に溶ける。
運ばれてきた料理は、期待を裏切らないものだった。ハーブチキンの皮はパリッと香ばしく、ナイフを入れると透明な肉汁が溢れ出す。ローズマリーの清涼感とレモンの酸味が、疲れた体に染み渡っていくようだった。
ヴィルは黙々と白身魚のグリルを口に運んでいる。
わたしは、またしても彼の「手」を目で追ってしまう。銀のナイフとフォークを操る所作には一切の迷いがなく、カチャリという食器の音さえさせない。大きな手が器用に魚の骨を外し、柑橘の薄片を添えるその様は、剣を振るう姿とは別種の、静かな美しさを湛えていた。
――……やっぱりこの人って、ずるいな。
心の中で、ちいさく呟いた。荒々しい戦いぶりを知っているからこそ、ふとした瞬間に覗くこの洗練が、こちらの呼吸を奪っていく。
「ん? どうした、手が止まっているじゃないか」
「っ、ううん! なんでもないの」
視線に気づかれたかと焦り、わたしはワインで唇を湿らせた。冷たい液体が、カッと熱くなった頬を少しだけ冷やしてくれる。
「ただ……以前から思ってたんだけど、ヴィルって意外にテーブルマナーがしっかりしてるんだなって」
「……意外とはなんだ、意外とは」
ヴィルは苦笑し、グラスの縁を親指でなぞった。その無意識の動きさえ、妙に艶めかしく見える。
「確かに俺は田舎者だが、騎士団に入ったときに散々しごかれてな。で、その礼儀作法の講師ってのが……」
「まさか、父さま?」
「そういうことだ。『騎士たる者、剣を置いた時こそ優雅であれ』ってのが、あいつの口癖だった。まったく、剣しか握ったことのないような俺にとっちゃ迷惑な話さ」
悪態をつくような言い方で懐かしむように目を細める彼を見て、わたしは鎖骨の下がきゅっと締め付けられるような感覚を覚えた。
わたしの知らない父の時間を、彼は知っている。その共有された記憶が羨ましくもあり、同時に、彼の中に父の教えが息づいていることが嬉しくもあった。
「返すようで悪いが、お前こそどうなんだ。人里離れた森の奥で育ったにしては、隙がない」
試すような視線に、心臓が跳ねる。
「そ、そうかな……。たぶん父さまの躾が厳しかったから。それに、母さまを見習っていれば、自然とね」
嘘だ。本当は、“もっと前から”知っているから。この世界で教わるよりずっと前に、魂が覚えてしまっている所作。
そのずれをごまかすように息をひとつ飲み込む。舌の裏に苦さが残った。ヴィルの指先がグラスに触れる気配だけが、やけに鮮明に耳へ届く。
「……納得だな」
ヴィルは短く呟き、満足げに頷いた。その瞳が、まっすぐにわたしを射抜く。まるで「お前は間違いなく、あの二人の娘だ」と、存在そのものを肯定してくれているような眼差しだった。
わたしは逃げるようにパンを千切ったけれど、指先の震えまでは隠せそうになかった。
ハーブの香りと、陽気な街のざわめき。そして目の前にいる、頼もしくも繊細な人。
これから何が待っているのかは分からない。けれど今は、ガラスの音と彼の間合いだけが、わたしの中で静かに残っていく気がした。




