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小川に映る二人の絆

 無事に国境を越えたというのに、内側にはまだ、冷たく重いしこりが張りついたままだった。


 スレイドの背で、わたしはヴィルの腰に回した腕に、無意識に力を込めていた。分厚いコート越しに伝わってくる彼の体温と、一定のリズムで揺れる背中の存在だけが、縮こまった心を現実へ繋ぎ止めている。


 けれど、わたしの脈は落ち着ききらない。蹄が小石を踏む乾いた音が響くたび、あるいは風が枝葉を揺らすたび、背後から何かが迫ってくるような錯覚に襲われる。すがりつきたくなる衝動を、舌の裏の渇きで必死に押し止めていた。


 背筋をつたう汗の細い筋が、まだ残る怖さをしつこく思い出させる。


 ヴィルは手綱を操りながら、時折鋭い視線を周囲に走らせているのが、肩の動きでわかる。


 互いに余計な言葉は一切交わさない。密着した身体を通して、彼の緊張と覚悟が、言葉よりも雄弁に伝わってくるからだ。


 わたしの腕の中で、彼の革のベルトが微かにきしむ。硬い感触と匂いが、呼吸のたびに鼻へ戻り、いまここにいるという輪郭を、手のひらへ返してくれる。


 早く、人の気配の薄い場所へ抜けたい。誰の視線も届かない場所へ隠れたい。そんな切実な願いが喉の奥で固く丸まり、声にならないまま燻っていた。


 ようやく内側の重さが少しほどけたのは、国境から一時間ほど進んだ頃だった。街道から外れ、木々の密度が増した獣道を抜けた先。緑のトンネルをくぐるようにして進むと、視界が開け、道沿いに細く流れる小川が現れた。


 陽を受けた水面が、ひときわ明るく瞬いた。それを見た瞬間、肺の奥底に溜めこんでいた重い息が、ヴィルの背中に顔を埋めるようにして、やっと吐き出されていった。


 張り詰めていた世界が、水音ひとつでふわりと緩む。


 ヴィルが手綱を引き、スレイドを静かに止めた。


「……降りるぞ」


 短く告げると、彼はひらりと身軽に地面へ降り立つ。続いてわたしが降りるのを、彼が片手で支えてくれた。スレイドの温かい背中から滑り落ち、ブーツの裏で地面を踏みしめる。土と草の柔らかい弾力が、ひどく懐かしく、頼もしく感じられた。


 ヴィルから離れた瞬間、鎖骨の下や腕の内側に満ちていた彼の体温が失われ、外気が急に刺さる。それが心細くて、わたしは無意識に自分の二の腕を抱く。


「ふわーっ……あーっ……」


 大きく背伸びをすると、肩甲骨のあたりで小さな音が鳴り、緊張で固まっていた筋がじわじわと血を取り戻していくのが分かった。指先の冷えが、ようやく和らいでいく。生きている、という実感が遅れてやってくる。


 ヴィルはスレイドの手綱を短く握り、小川の浅瀬へと導いていく。その仕草はいつもどおり穏やかで、つい先ほどまで検問という死線を潜り抜け、剣呑な空気を纏っていたことすら、少し遠い出来事みたいに思わせた。


 引き結ばれた世界の中に、そこだけ変わらないリズムがある。ヴィルという人の揺るぎない在り方が、今のわたしにはひどく心強く、息がひとつ深く入った。


 スレイドは素直に従い、冷たい水面に鼻先を近づけると、満足そうに喉を鳴らして水を飲み始めた。水面が揺れ、波紋がすっと走る。馬の荒い鼻息と、水を吸い込む音。それらが森の静寂に溶け込み、生命の営みとして響く。


 わたしはその様子を横目に、小川のせせらぎに耳を傾ける。


 水が石に当たって跳ねる音は、どこか人の話し声に似た柔らかさがあり、強ばった内側を少しずつ、丁寧にほどいていく。湿った土の匂いが遅れて鼻の奥へ届き、川底の小石が淡く透けて見えた。足もとの草が靴底でしっとり潰れ、冷気がくるぶしへまとわりつく。


 ここだけ、外の気配が一枚薄くなったみたいだった。


《《ねえ美鶴。さっきの検問のとき、手のひらすごいことになってたでしょ?》》


 頭の中で響く声に、思わず自分の手を見下ろす。まだ微かに湿り気が残っていた。


「……わかった?」


《《わかるよ。五感を共有してるんだし》》


 呆れたような、けれどどこか楽しげな声。当然なのに、改めて言われると妙に恥ずかしい。


「緊張しない方がおかしくないでしょ。ほんと、心臓が破裂するかと思ったわ」


《《うん、ばくばくしてた》》


「あなたって、昔からこういう時に動じないよね。いつも堂々としてた……」


《《そんなことないよ。緊張するって。胸が苦しくなって、頭の中どくんどくんってやかましいくらい。でも、深呼吸をして行きたいところを見据えれば、不思議と落ち着くものなんだよ。それに、そうやって自分を追い込むより、一歩引いて状況を俯瞰するのも大事なんだよ》》


「それって、バイクトライアルの経験?」


 前世の茉凛は、幼い頃から自転車のトライアル競技に取り組んでいた。それはもう息をするのと同じくらい。まるで武術の鍛錬のように、毎日練習を重ねていたという。


《《まあね。試合でセクションに挑む前っていつもそんな感じだった。緊張を楽しめなんて言わないけど、囚われるよりはマシでしょ? 切り替えが大事ってこと》》


「精神統一ってさ、口で言うのは容易いけど、土壇場でそれができるのが凄いのよ。ほんと羨ましいわ。わたしって、肝心な時につい頭がぐるぐるしちゃうから」


《《雑念を捨てて、成功するイメージだけを見据える。『猫まっしぐら』モードになるのも、場合によっては大事ってことだね》》


「なるほど。わかりやすい喩えね……」


 ふっと、脳裏に光景が浮かぶ。切り立った岩場、複雑に組み合わされた人工の障害物の数々。そこを点と点を結ぶように迷いもなく駆け抜けていく、しなやかな人車一体の軌跡。静と動。居合の極意の如し。


「あなたが言うと、細い綱を渡れって言われてもいけそうな気がするから不思議ね。……参考にするわ」


 小川のせせらぎが、沈黙をやわらかく埋めていく。


《《それにしてもさ》》


「なに?」


《《ヴィルの認識票。あれが出てきたとき、係官の顔、見た? あの変わりよう》》


「あれね。鉄面皮が一瞬で崩れて……ちょっと痛快だった」


《《ふふ》》


 水面に視線を落としながら、口元が緩むのを止められなかった。


《《あと、思ったんだけどさ》》


「なに?」


《《あの認識票って、翼の片翼の形だったよね》》


「……うん」


《《なんか、思い出しちゃった。覚えてる? わたしが押しつけたキーホルダー》》


 ――ふたつでひとつの、ツバサ。


 前世の夏の日、茉凛が差し出したペアになる黒い片翼のキーホルダー。『辛いことも悲しいことも、半分こにしたい。そんな願いを込めた』のだと、照れながら彼女は言った。友情の証だと笑っていたけれど、その声は少しだけ震えていた。


「……覚えてるよ。忘れるわけないでしょ。わたしたちの絆の原点なんだから」


《《そっか》》


 短い返事の奥に、柔らかな安堵が滲んでいる。


《《『雷光』かあ……。やっぱりヴィルって、すごい人だったんだね。最初はただの酒飲み剣士だと思ってたんだけど》》


「……そうね。護衛任務のときもそうだったし、一緒に旅をしてきてよくわかったわ。ただ強いだけじゃないってこともね。なんたって、父さまの隣に並び立つ人だったんだもの」


 返事が少し遅れたのは、みぞおちの奥がきゅっと鳴いたからだ。彼の過去に触れるたび、わたしの知らない時間の厚みを思い知らされる。眩しいような、寂しいような。


《《ま、今は美鶴のお師匠様だけどねっ》》


「師匠じゃないわよ。弟子っていうのは方便で……」


《《でも、ちゃんと『俺が選んだ』って言ってくれたじゃん》》


 茉凛の声が、少しだけ柔らかくなる。


《《嬉しかったでしょ?》》


 図星を突かれて、言葉に詰まる。嬉しかった。怖かったけれど、それ以上に、足元が固まるような心強さがあった。


「……ちょ、ちょっとだけ」


《《素直じゃないなあ。まったく》》


 からかうような響き。けれど、それ以上は踏み込んでこない。茉凛はいつもそうだ。肝心なところで、そっと引いてくれる。


 スレイドが水を飲み終え、満足げに首を振った。水滴が光の粒になって散る。濡れた草の匂いが、陽にほどけてふわりと立った。ヴィルが手綱を引き、こちらへ歩いてくる。


《《――じゃ、わたしはちょっと黙ってるね》》


「え?」


《《邪魔しちゃ悪いでしょ》》


 意味ありげな響きを残して、茉凛の気配がすっと薄くなる。消えたわけではない。ただ、一歩引いて見守る位置に下がっただけ。


 何を邪魔するというのか、問い返す間もなく、ヴィルの影がわたしの前に落ちた。


「……なんとか無事にここまで来れたな」


 ヴィルがぽつりと呟く。


 スレイドのたてがみを整える彼の指先が、一瞬だけ緩んだのを、わたしは見逃さなかった。


 その瞳の奥には、検問の際に見せた鋭い光は消え、代わりにほっとしたような、凪いだ色が浮かんでいる。今こうして愛馬が水を飲む姿を見守ることが、彼なりの休息なのかもしれないと、ふと思う。


「本当に、ね……。一時は心臓が止まるかと思ったわ」


 わたしもヴィルに倣って小川へと歩み寄り、膝をついて水に手を浸した。


 澄んだ水が指先を包み込み、こわばった熱を少しずつさらっていく。流れ続ける水はただそこにあるだけなのに、皮膚の下にまで沁みてくるような静けさを連れてくる。


 ひんやりとした感触が心地いい。恐怖で火照っていた思考が、急速に冷やされていく。


 ヴィルはしばらく何も言わず、スレイドの背をリズミカルに撫でていた。革手袋の擦れる音が、穏やかな間合いを刻んでいく。やがて、ふいにこちらへ目を向け、静かに口を開いた。


「顔色があまりよくないぞ。少しでも横になっていたほうがいい」


 その声音が、肋のあたりへ小さく灯る。


「ううん、わたしはまだ平気よ。それより、ヴィルこそ休んだほうがいいんじゃない? ずっと気を張っていたでしょう」


 精一杯微笑んでみせると、ヴィルはほんの一瞬だけ眉をひそめ、わたしの手元に目を落とした。


「生意気言うな。お前こそ手が震えているじゃないか」


 指摘されて、はっと自分の手を見る。


 水に浸していた指先が、微かに震えて波紋を乱していた。隠そうとして拳を握っても、震えはすぐには止まらない。


 ヴィルは短く息を吐き、呆れたように、けれど優しく言った。


「自分の状態を正しく把握するのも、生き残るための技術だ。無理をするなと言ったはずだぞ」


 正論にぐうの音も出ず、わたしは唇を尖らせる。


「……わかったわよ。少しだけね」


 彼がわたしを案じていることが、目を合わせなくても、その背中の気配だけでじんわりと伝わってきた。言葉にされない労りが、陽だまりのように降り注いでくる。


 小川のほとりに立つスレイドが、突然耳をぴくりと動かした。風が草むらを渡り、葉擦れの音がさらさらと波のように広がっていく。一瞬、わたしの肩が跳ね、心臓が早鐘を打った。だが、それがただの自然の気配に過ぎないのだと分かると、肺の奥に残っていた最後の張りが、またひとつほどけていった。


「それにしても……」


 ヴィルが不意に口を開く。足もとを流れる水音が、その低い声の端をさらっていく。


「俺はお前を弟子にした覚えはないんだがな……。まさか、あんなことを口走るとは思わなかった」


 言い方はそっけないのに、語尾に混ざる息が軽い。さっきまでの重苦しい空気が、ふわりと薄まる。


「あら、そうじゃなかったの?」


 わたしは川辺に腰を下ろし、水飛沫がブーツの先をかすめるのを感じながら、からかうように言い返した。


 ひんやりとした感触が皮膚を撫でるたび、旅の疲れも、体の奥にこびりついた怖さも、じわじわと洗い流されていく気がした。


 ヴィルはわたしの言葉に片方の眉をわずかに上げる。いつも鋭い彼の目が、ほんの少しだけ和らいで見えた。その表情は、冗談を言ったことへの照れなのか、それともわたしの減らず口を面白がっているのか、どちらとも言い切れない曖昧さを含んでいる。


「前に言ったはずだ。俺はお前を一人前の仲間として扱う、とな。剣術にしても乗馬にしても、お前が自ら望んだことだろう? 俺はただお前の自主的な向上の手助けをしていただけにすぎん」


「言葉は選んでほしいものね。手助けっていうより、しごきに近い気がしたんだけど?」


「お前こそ、人聞きの悪いことを言うな。愛情ある指導と言え」


「愛情ねえ……」


 ヴィルが腕を組み、川の向こう岸へ目を向ける。その横顔に薄く浮かんだ笑みは、どこか自分自身への言い訳を面白がっているようでもあった。川のせせらぎが、彼の理屈めいた言葉を柔らかく包み込んで遠ざけていく。


「その割にずいぶんと熱を入れてたじゃない? 体中あざだらけになるくらいに。あれが愛情なら、ずいぶんと痛い愛だこと」


 わざとらしくため息をついて見せると、ヴィルはわずかに肩をすくめた。少しあきれたような仕草ではあるけれど、目の奥には、笑いを堪えているような光が宿っている。


「強い意欲を向けてくる者には、全力で応えるのが俺の流儀だ。『中途半端な情けは、戦場では死を招く』。ユベルがそうしてたようにな」


「はいはい、肝に銘じておきます、師匠」


「……だから、師匠はやめろと言っている。むず痒くてたまらん」


 照れくささを隠すみたいにそっけなく言いながら、彼はまた目を遠くへと逸らす。その横顔に、木漏れ日の影がまだらに落ちて、わたしの腹の底がほんのり温かくなった。


 ヴィルの喉が小さく鳴るのを、わたしは水音の隙間で聞いた。笑いを飲み込むみたいな音だった。


 膝の上で指が絡み、息がひとつだけ喉に引っかかる。


「それに……俺は、お前を信じてるからな」


「え……」


 わたしは驚いて彼を見つめた。


 川面の反射が揺れて、彼の虹彩の中の光と溶け合う。普段はそう簡単に心の内を見せない人の、あまりにもまっすぐな眼差し。その真摯さが、皮膚を通り越して奥の柔らかい場所に直接触れてくる。


 喉の奥が少し熱くなり、居たたまれなくて、思わず顔を背けた。


「ま、まあ……いいわ。あなたがそう言ってくれるなら、わたしも全力で向き合うから。いつか雷光のヴィル・ブルフォードを、『参った』って言わせられるようにね」


 少し強がるみたいに言葉を投げると、自分の声の軽さの下で、心臓が早鐘を打っているのを自覚する。


 わたしの挑発めいた言葉に、ヴィルの口元がかすかに動いた。照れくさいのか、呆れているのか、それとも仲間の成長を喜んでいるのか。その全部が少しずつ混ざり合った、大人の男の複雑な笑みだった。


「その日が来ることを、せいぜい楽しみにしているさ。なにせ、お前はユベルの娘なんだからな。期待しているぞ」


 父の名を口にされた瞬間、みぞおちの奥にひやりとした感覚が走る。


 けれどそれは嫌な冷たさではない。偉大な父の影と、それを超えていけという期待。その重圧のすぐ隣に、誇らしさにも似た温かさが同居しているのを、わたしははっきりと意識していた。


 足先に流れる水を感じながら、わたしはその感覚を、そっと留めておく。ほどけないように。


「冗談じゃなく、本気の本気よ。真面目に言ってるんだからね。わたしの頑張りを、その目でちゃんと見ててちょうだい」


 少し照れながらも、わたしは彼を見据えて言い放つ。


 頬のあたりがむず痒くなって、つま先で水面をそっと蹴った。ぴしゃり、と跳ねたしぶきが足首にかかり、その感触が、逃げ場のない本音を誤魔化すための小さな隠れ蓑になってくれる。


 ヴィルはちらりとわたしを見て、ほんのわずかに、けれど確かに口角を上げた。


「わかった。……俺はいつだって、お前を見ている」


 何の飾りもない、けれどどんな誓いよりも重いその言葉が、水音より静かに腹の底へ沈んでいく。


 ドクン、と鼓動が一拍だけ強く跳ねた。そのあと、さっきまでとは違う、穏やかで熱を帯びたリズムで落ち着いていくのを感じた。


 しばらくの間、わたしたちは言葉を交わさず、ただ小川のせせらぎに耳を傾けていた。


 沈黙。けれど、その沈黙は、さっきまでのこわばりを含んだそれとは違う。信頼と、言葉にしきれないやわらかい温度が溶け込んだ、心地よい静寂だった。膝の上で絡めた指から、いつのまにか力が抜けていた。


 風が木々を揺らし、柔らかい日差しが川辺を包む。わたしはスレイドの背を撫でるヴィルの横顔を眺めながら、共に過ごすこの穏やかな瞬間を、きっといつまでも忘れまいと思った。


 そして願わくば、この先どれほど過酷な運命が待っていようとも、この信頼だけは手放したくない。


 水面を渡る風が頬を撫で、川の匂いが薄く混じった。


 水鏡に映る自分の唇がかすかに動き、言えないままの願いが喉の奥で、またひとつ結び目になった。

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