揺らめく緑、輝く銀
翌朝。宿の硬いベッドから身を起こし、わたしはミースが精魂込めて染め上げたウィッグを手に取った。
窓の光に透かすと、若緑は瑞々しく、残酷なほどに綺麗だった。伝説と謳われた姫巫女メービスの髪色。これが盾になるのか、檻になるのか――まだ分からない。
黒髪のまま晒すよりはましだ、と自分に言い聞かせて、祈るような手つきで被り、金具を留めた。頬のこわばりと、吐き切れない息の苦さだけが、わたしだった。
部屋を出ると、廊下の陰にヴィルが立っていた。薄暗がりの中、その銀の髪と肩幅の広さだけが、静かに空気を占めている。
湿った冷気が襟元へ入り、ウィッグの金具が髪の下でひやりと重い。
「おはよう、ミツル。ほう……似合ってるじゃないか」
声が近い。若緑の毛先が頬に触れて、冷えが細く残った。
「そ、そうかしら」
返事のあと、指先が勝手に震え、袖口の布をつかんでしまう。
ただの労いだ。そう分かっているのに、声の温度が皮膚の裏へ熱を残す。
「その、あなたから見て、おかしいところない?」
「なぜだ?」
「鏡もないし、確かめようがなかったから……」
「心配性だな。ずれも浮きもない。不自然さは感じられん。問題なしだ」
「そう……ならよかった」
わたしは視線を床へ逃がし、緑の髪を指で梳いた。作り物の髪はひんやりしているのに、頬だけが不自然に熱かった。
◇◇◇
宿を出て、ヴィルとともに北へ向かう。朝の空気は刃物じみて澄み、頬を切る風には冬の匂いが混じっていた。
視界を埋め尽くすのは、刈り残しの麦畑。風が吹き抜けるたび、乾いた茎が擦れ合い、低いざわめきが地面から這い上がる。遠くの山は白雪を冠したまま黙っていて、その無言の重さが骨の奥へ染みる。
やがて地平線の向こうから、灰色の線が浮かび上がった。
リーディス国境城壁。霞だと思ったものが、近づくにつれて質量を増し、拒絶の壁になって立ちはだかる。石の肌理が、排するために積み重ねられてきた年月を無言で突きつけてくる。
首を上げるだけで、頸の筋が軋んだ。
「……あれが国境線だ。城壁の手前に検問所が見えるだろう?」
ヴィルの呟きは低く、古傷を撫でられたみたいな警戒が滲んでいた。
「国境だけで、あの防備だ」
短く言って、喉仏が一度だけ上下した。
「大陸一の軍事国家の名は伊達じゃない。二重の城壁に、数キロごとの見張り台……あそこには、他国の干渉を許さない強固な意思がある」
跳ね橋が黒い影を落とし、鉄の顎のように口を開けて待っている。
「ここからは、気を引き締めていこう」
言葉の硬さが背筋を伸ばし、わたしは小さく息を吸った。冷気が肺の奥まで満ち、指先の震えがひと息ぶん引いていく。
◇◇◇
城門前へ近づくにつれ、すれ違う人々の視線が肌をざらりと擦った。
湿った石の匂いが鼻腔を刺す。脈が勝手に速くなる。ここから先は『リーディス』の領分だと、身体が先に悟ってしまう。
広場は混沌とした熱気に包まれていた。商人の苛立った声、馬のいななき、車輪が石畳を削る不快な音。土埃と体臭に、微かな鉄錆の匂いが混じって、舌の根までざらつかせる。
人波の肩がぶつかり、外套の端が引っ張られた。
「ずいぶん混み合ってるわね。それだけ人と物の出入りが多いってことか。さすがは先進国だわ」
声を落とすと、唇の内側が乾いてくる。
ヴィルは周囲を見ながら、喉だけを動かす小さな声で返した。
「だが、国にとっては頭の痛い話さ。密輸に密入国が絶えんからな。検査も厳重にしなければならん」
「きっちりしてるのはいいことなんだけど、ここを抜けるのは骨が折れそう」
鎧の擦れる微音が、耳の裏へ刺さった。
「わたし、こういうの初めてだから……緊張する」
息が浅くなり、奥歯を噛み締める。
「いいか、ミツル。雑踏こそ魔が潜むものだ。周囲に目を光らせろ」
言葉の硬さが背筋を支えてきた。その瞬間、腰の剣帯がひとつだけ締まる。
《《まさに、スリル・アンド・サスペンスって感じだね。よし、わたしも予知視のスタンバイしておくよ》》
「おねがいするわ、茉凛。もしもの時は、視覚の切り替えをよろしくね」
《《あいよ。でもドキドキするよね、こういう展開ってさ。けど、あまりキョロキョロしたらいけないよ。こういう時は、堂々としていればいいの》》
頭の内側で響く声が、妙に近い。
「わかったわ」
フードを深く被り、背筋を伸ばす。
見上げるヴィルの横顔から、いつもの穏やかさが消えていた。研ぎ澄まされた刃のような緊張。雑踏が遠のき、彼の気配だけが頼りになる。
長い時間のあと、ようやくわたしたちの番が来た。
係官の男が、射抜くようにこちらを見据える。銀色の軽鎧は手入れが行き届き、太陽の下で鈍く光っていた。無精髭のない顎。感情を排した瞳。そこにあるのは職務への忠実さと、異物への拒絶だけ。
風が一度止まり、耳の奥がしんとした。
「次。通行証を出せ」
抑揚のない声が、鉄板みたいに硬い。
ヴィルは肩をすくめ、茶飲み話でもするように言った。
「悪いが、そんなものは持ち合わせていない」
係官の眉間に皺が刻まれ、視線が鋭くなる。
「ふざけるな。身元の知れぬ者を通すわけにはいかん。直ちにここから立ち去れ!」
怒号が響き、周囲の視線が痛いほど突き刺さった。空気が凍り、背中に汗がにじむ。
手のひらが湿って、指が開かなくなる。
だがヴィルは薄い笑みを残したまま、ゆっくり懐に手を入れる。
その瞬間、近くの槍先がわずかに持ち上がり、金属が擦れる短い音がした。
ヴィルの動作があまりに落ち着いていて、係官の怒りが一拍だけ抜け落ちる。
「なるほど。若造なら、俺の顔を知らんのも無理はない」
取り出されたのは、掌に収まる小さな銀色の認識票――ペンダント型のそれだった。片翼を模した意匠が、陽光を受けて鋭い光を散らす。金属というより、時間の重さがそのまま形になっていた。
「……そ、それは」
係官の目が見開かれ、鉄面皮が崩れる。
ヴィルは淡々と名乗った。
「元銀翼騎士団右翼、副官。ヴィル・ブルフォードだ」
声は静かなのに、広場の喧騒が一段沈む。認識票が跳ね返した光が、彼の過去を無言で証していた。
「この認識票は、かつての西部戦線における戦功により『終身有効』と認められたものだ。故あって騎士の座は降りたが――魂までは捨てていない。……通行証代わりにはなるはずだ」
係官の瞳から侮蔑が消え、畏敬が満ちていく。伝説に指先が触れてしまった者の震え。
「……『雷光』と誉れ高き、ブルフォード卿でありましたか――」
「いかにも」
「失礼いたしました!」
係官は慌てて姿勢を正し、深々と頭を下げた。
ヴィルは短く告げる。
「気にすることはない」
けれど、その笑みは視線だけが遠い。わたしの知らない彼の時間が、そこにある。触れられない聖域の静けさが、肋のあたりで小さく鳴った。
「して、そちらの同行の方は?」
係官の視線がわたしへ向く。鎧の隙間から漂う革と汗の匂いが、急に濃くなる。
ヴィルが振り返り、わたしを見る。瞳だけが「大丈夫だ」と言っている。
わたしは震える指でフードを外し、顔を上げた。風が若緑色の髪をさらりと揺らす。
舌の根が乾き、声がひび割れそうになるのを、歯の裏で押さえた。
「……わたしの名前は、ミツル」
言い切ると、背筋の強張りが少しだけほどける。
「ブルフォード様に弟子入りした者です」
――嘘だ。
咄嗟に出た言葉に舌の裏がひやりとした。戻せないのに、もう言い直せない。身体が勝手に姿勢を正していた。
係官はわたしとヴィルを見比べ、信じられない顔をする。
「あなたほどの方が、このような幼き少女を弟子に迎えたというのですか?」
ヴィルは楽しそうに笑い、わたしの肩に大きな手を置いた。重みと体温が、わたしをここに縫い止める。
「いかにも。彼女はまだ年若いが、芯の強さは俺が保証する。……俺の期待に応えうるだけの稀有な才能を秘めている。だからこそ選んだ」
声の熱が、錨のように腹の底へ沈んでいく。
また『選ばれて』しまった、と舌の根が冷える。逃げたいのに、足の裏は崩れない。冷たい風の中で、わたしは立っている。
係官は敬礼し、道を譲った。
わたしたちは分厚い城壁の影が落ちるトンネルを抜け、リーディスの地へ足を踏み入れる。石の冷気と、向こう側から流れ込む空気の温度差が、足首のあたりでくっきりと境界線を描いた。
光の中で、ヴィルがこちらを見る。目を細める。
「よくやった。上出来だ」
その一言に、張り詰めていた糸がふつりと切れた。安堵が息の底へ広がり、甘い痛みが遅れて追いつく。
『弟子』という嘘が、わたしの中でゆっくり形を変え始める。指先の震えが止まり、代わりに何かが静かに灯っていた。




