深淵の刻(とき)を紡ぐミツル
季節は晩秋から冬に差し掛かり、空気はひんやり澄んでいた。けれど、日差しがスレイドの背をぬくめ、わたしの頬にもそっと降り注ぐ。そのぬくみで、冷たい風の角が丸められていく気がした。道端の木々は葉を落とし、冬支度を終えた姿で静かに立っている。ときおり舞い上がった枯れ葉が、くるりと宙で向きを変えて、音もなく地面へ吸い込まれていった。
スレイドの歩みに合わせて、わたしはヴィルの背中へ身を預ける。わたしは後ろの鞍に浅く腰を下ろし、前を見ようと首を伸ばしても、目の前にあるのは彼の広くて頼もしい背中だけだった。厚みと安定が鞍越しに伝わり、喉の渇きだけがひと息ぶん引いていく。ヴィルの手綱さばきがわずかに変わるたび、スレイドの耳がぴくりと応え、その小さな合図に合わせて、わたしの身体もほんの少し揺れた。革がきしむ微かな音に身を委ねると、固くなっていた肩が、ほどけ方を思い出していく。
街道には人々の活気があった。商人が馬車に荷を積み、笑顔を交わしながら南へと進んでいく。車輪が砂利を噛む音に混じって、スレイドのひづめが乾いた道を小気味よく叩く。馬の汗と革の匂いが、風に薄く混ざっていた。
背に届く熱は変わらず、そこにあった。なのに、胃の底にはどうしても拭えない重さが沈んでいた。話したいことがあるのに、どう形にすればいいのか分からない。言葉を心の中で並べ替えるほど、舌の先がざらついていく。
――ねえ、ヴィル……。
呼びかけようとして、声にする前に、舌が上あごに貼りつき、ほどけてしまう。その小さな挫け方ばかりを、何度も繰り返していた。指先がこわばり、鞍の縁の革がいつもより硬く感じる。信じているはずなのに、怖さだけが先に立つ。
その理由が、自分でも掴めなかった。
ヴィルがどう感じ、どう応えるのか。考えるだけで息が詰まる。きっと優しく聞いてくれる。けれど、優しさがあるからこそ、崩れてしまいそうで怖い。旅路のどこかで何かが変わるかもしれない、と願いながら、わたしは沈黙を破る勇気を探し続けていた。
背中の確かさにしがみつくようにしながら、わたしは思い出の中の母へ、そっと手を伸ばした。
◇◇◇
「母さま……?」
窓辺で繕い物をしていた母が、その手を止める。振り返った拍子に、長い黒髪がさらりと肩から滑り落ち、午後の柔らかな日差しを吸い込んで濡れたように光った。
「あら、ミツル。どうしたの?」
母はわたしの顔を覗き込むと、ふわりと微笑む。その薄い翡翠色の瞳には、日だまりの光と、奥に消えそうな影が宿っていた。
「なんだか沈んだ顔をしているわね。……何かあったの?」
わたしは小さく肩を落とし、視線を木の床板に落とす。言いたい言葉が舌の根でつかえて、唇を噛みしめた。裸足の足指をもじもじと動かすと、古い床板が小さく軋んだ。
「あのね、父さまに街に連れてってほしいってお願いしたの。そしたら、すごく怖い顔で叱られちゃった……」
母は少し困ったように眉を寄せ、持っていた針と布をそっとバスケットに置いた。立ち上がる衣擦れの音、干した布に残る甘い陽の匂い。母がこちらへ歩いてくる足音が、木の床を伝わってくる。
「あらら……だめな父さまね。どうしてそんなことするのかしら」
「でしょう?」
わたしは少し拗ねたように唇を尖らせる。
「理由を尋ねても、何も教えてくれないし……わけがわからないよ」
母はじっとわたしの顔を見つめ、しばらく考え込むように視線を伏せた。長い睫毛が落とす影が、頬の上でわずかに揺れている。
やがて母は静かに膝をつき、わたしと目線を合わせてくれた。木の床に触れた膝がことりと音を立て、ふわりと母の匂いがわたしを包む。この近さで見上げると、母の輪郭に窓からの陽が透けて、ほんのり金色に縁取られている。
「でもね、ミツル。父さまは誰よりもあなたのことが大切なの」
母は言い切る前に、いったん息を整えるみたいに唇を閉じた。
「だから、怖くなってしまうのよ。……この森の外の世界は、とても危険だから」
「なぜ危険なの?」
母は一瞬、窓の外に広がる深い森の緑を見つめた。風が渡り、木々がざわざわと波打つ音が、部屋の中まで入り込んでくる。
「魔獣と呼ばれる危険な生き物が、あちこちにうろうろしていてね。あなたみたいな小さくて柔らかい子供は、『うまそうだ』ってすぐに食べられちゃうかもしれない」
「えーっ、こわい……」
母は笑ってみせようとして、喉の奥でいったん息を呑んだ。
「ふふ、怖いわね。……でも、それだけじゃないの」
声の端がわずかに低くなる。母の細い指先が伸びてきて、わたしのお下げ髪――母と同じ闇色の髪にそっと触れた。その指が髪を梳くように滑り、耳のうしろを撫でていく。くすぐったいような、やわらかいような。
「わたしたちの、この髪や瞳の色。……外の世界には、これを特別なものとして見る人たちがいるの」
わたしは首をかしげる。指先から伝わる母の手はやわらかいのに、なぜか少しだけ冷えている。
「それのなにがいけないの? 母さまの髪も瞳の色も、すごくきれいなのに」
幼いわたしには、この美しい夜の色が、なぜいけないことなのか分からなかった。
母は少し困ったように眉を下げ、言い聞かせるように言葉を紡いでいく。
「普通なら『珍しいね』で済む話なんだけど……黒い髪はね、ある国ではとても忌み嫌われているの。それにこの瞳の色を一緒に持っていると、もっと厄介なことになる。昔から『大変な災いが起きる前触れ』だなんて伝えられていてね……」
母の指先が、髪からわたしの頬へと移り、そっとその輪郭をなぞった。その指がほんのわずかに震えていることに気づいて、わたしは息を呑んだ。
「もし見つかってしまったら、悪い人たちに捕まって、どこか遠くへ連れて行かれて閉じ込められてしまうかもしれない。二度と、父さまにも会えなくなってしまうわ」
閉じ込められる。その言葉の響きに、母自身の痛みが混じっているような気がした。
「そんなの嫌だ。離れ離れになるなんて、絶対に嫌……」
母の瞳の奥に、ここではないどこか遠い場所――高い壁に囲まれた、空の狭い場所を見ているような憂いが浮かんでいる。
「だからね、わたしたちはこの場所を離れられないの。父さまは、あなたを守るために心を鬼にしてくれているんだと思う。ごめんね、ミツル。どうかわかってあげて」
幼いわたしにも、それが単なるお伽噺の脅し文句でないことが、肌感覚として伝わってきた。
「うん……」
窓の外で、鳥が鋭い声で鳴いた。
「だいじょうぶ。どんなことがあっても、わたしと父さまがあなたのことを守るわ」
母の手が、わたしの頬を両手でそっと包み込んだ。小さな顔をまるごと受け止めるその掌は、日向に置いた布のやわらかさで、頬のこわばりをゆっくりほどいていく。そのぬくみだけが、世界からわたしを守ってくれる唯一の盾なのだと、わたしは幼心に悟っていた。
◇◇◇
日が傾くにつれて風が尖り、設営の音があたりの静けさを少しずつ組み替えていった。夜が落ちた頃には、焚き火の火が細く息をし、爆ぜる音が闇に溶けていく。
橙色の光が揺れながら、ヴィルの横顔を柔らかく照らしていた。火の明滅に合わせて、その表情もどこか揺れているように見える。
彼は黙ったまま、手のスキットルを傾け、ひとくち酒を含む。ごくりと喉が鳴るその音も、炎の音にかき消されていった。
焚き火を囲み、控えめに酒を嗜むヴィルの姿はもう何度も見てきた。変わらない穏やかな夜、いつものはずなのに――今夜は、彼が少し遠くに感じられる。炎の揺らめきが空気を歪ませるたび、わたしの内側の座りが悪くなっていく。
ヴィルはただ炎を見つめ続けている。その瞳は深い思索に沈んでいるようにも、不思議なほど穏やかにも見えた。わたしは横顔を盗み見ながら、自分の中で揺れるものを持て余していた。
彼はきっと、わたしが考え込んでいることに気づいている。些細な仕草や、長く続く沈黙にも、ヴィルは敏い。けれど彼は問い詰めず、ただ待っている。わたしが自分で考え、答えを出すのを尊重してくれる。
『自分で考え、導いた答えこそが、お前の力になる』
その言葉を思い出すと、肋のあたりが固くなる。迷った時は頼ってもいい――そう言ってくれたけれど、まず自分で悩むことを促す。だから今も、彼は静かにわたしの言葉を待っているのだろう。
夜の空気は冷たい。膝の上で指先をこすり合わせると、革越しにも冷えが残った。けれど焚き火の橙と、隣にいるヴィルの気配が、息の形だけは楽にしてくれる。わたしは深呼吸をひとつ落とした。
リーディスでは、黒髪は忌み嫌われるものとされている。誰もが「不吉だから」と言う。単なる髪色を疫病や天変地異と結びつけるなんて――理不尽で、馬鹿げている。そう笑いたいのに、笑えない。火が爆ぜるたび、考えが途中で切れる。
ここは異なる世界だ。古い言い伝えが、人の喉元をきつく締めることもある。前世の歴史を思い返せば、そんな景色はいくらでも見つかってしまう。
それでも、もう一つの可能性が頭を離れなかった。黒髪が「不吉」とされる理由が、魔獣の恐怖と結びついているのだとしたら。恐怖はいつだって、色や形に理由を押しつけてしまう。
そして、頭に浮かぶのはリーディス王家の伝説――精霊の泉の加護を受けた姫メービスと、聖剣を授かったヴォルフの物語。誰もが一度は耳にする“おとぎ話”。けれど、もしわたしが前世で演じた舞台と同じ内容なら、その敵とは……。
こことは異なる世界から魔獣を従えて襲来する、魔より魔なる者――その名は、魔族。
口にすると急に現実味が薄れる。物語としてなら、舌の根が妙にざわつくのに、現実へ結びつけようとすると滑稽で、怖い。それでも、「精霊の加護」という言葉がどうしても引っかかっていた。
薪がぱちりと鳴って、煙の匂いが一瞬だけ濃くなる。ヴィルの吐く息が白くほどけ、すぐ闇に消えた。
わたしの前世から引き継いだ異能――深淵の黒鶴。その現象具現化の橋渡し役である疑似精霊体。そして〈場裏〉。四種類の流儀の色は、なぜかこの世界の魔術の四大元素に符号する。にもかかわらず、動力源が全く異なる矛盾。精霊子と魔石の関係とは……。
さっきの音が、耳の奥でまだ鳴っている。言葉がいったん口の中で焦げて、また戻ってくる。もし同じ言葉が同じ核を指しているのなら、伝説とわたしの宿命は、どこかで触れてしまっている。
前世の世界に何かを残したのかもしれない根源――『精霊器デルワーズ』。彼女が残した言葉は、今も耳に焼き付いている。
『かつて、私は戦うためだけに生み出された』
あの声には、寂しさが混じっていた。力を振るうだけの存在として生まれ、誰かと出会い、運命が少しずつ変わり始めた――その薄い温かさが、逆に痛い。
そこから先は、まだ線になりきらない。けれど点だけは増えていく。メービス、母メイレア、そしてわたし――ミツル。
もし、三人が同じものを宿していたのなら。リーディス王家がデルワーズと関わる因子を受け継ぎ、その運命を抱えているのだとしたら。
さらに、マウザーグレイル。デルワーズにとって欠かせない――対になる存在で、異なる世界と異なる時間を超える力を持つとされる聖剣。メービスとヴォルフが手にし、世界を救った――そして今、わたしが受け継ぐもの。
炎がふっと縮み、思考がほどける。確証はない。妄想に過ぎない。薪が崩れて火の粉がいくつか散り、暗闇がすぐにそれを飲み込んだ。
こんな与太話を、ヴィルに相談できるはずもない。彼は実直だ。根拠のない推測に耳を傾けないし、無駄に心配させたくもない。分かっているから、今は黙るしかない。
茉凜も、二人きりの時には呆れたように言う。
《《美鶴、いつもの悪い癖だよ。無理に考えすぎなんだって。頭の中、ぐるぐるしすぎ。今はさ、なるようにしかならないんだから。もっと気楽に構えていいんじゃない?》》
いつも通りの明るい声。心配させまいとする優しさが滲んでいる。けれど、その言葉だけでは息の通り道に残る引っかかりが消えなかった。
証拠も何もない今は、この考えがただの空想で終わってくれることを、願わずにはいられなかった。




